Mr.Childrenの成熟と喪失(中)・着ぐるみのヒーロー

Hero97年から98年にかけての活動休止、その再開後にリリースされた最初のシングル『終わりなき旅』は、未来へ突き進む姿勢をストレートに示した力強い詞で、一度は見失った超越性を再び追求しようとする気概を感じとることができる。しかし、興味深いのはむしろ次のシングル『光の射す方へ』だろう。

夕食に誘った女の笑顔が
下品で酔いばかり回った
身振り手振りが大げさで 東洋人の顔して西洋人のフリしてる
ストッキングを取ってスッポンポンにしちゃえば
同じモンが付いてんだ
面倒くさくなって送るのもよして
ひとりきり情熱を振り回すバッティングセンター
(『光の射す方へ』)

「東洋人の顔をして西洋人のフリしてる」という「虚飾」と、「同じモンが付いてんだ」という「本質」。ここにも『名もなき詩』以降の二項対立が影を落としている。しかし、このときの桜井はどこまでもシニカルだ。『深海』の頃のように両者の齟齬こだわることはなく、「ひとりきり情熱を振り回すバッティングセンター」、すなわち自慰行為にふけっている。活動を再開してみたものの、未だに桜井は「彷徨って」「骨折って」「リハビリ」している最中であった。
7thアルバム『DISCOVERY』にはほかにも、『名もなき詩』をさらに陰鬱なトーンに染め上げたような『Prism』が収録されている。

仮面を着けた姿が だんだん様になってゆく
飾りたてた 言葉を吐いては 笑うよ自ら
(『Prism』)

言うまでもなく「仮面」とは「檻」の言い換えである。「本当の自分」を隠し、「仮面」を付けて生きることへの自嘲。『深海』の頃よりもさらにやさぐれたようにすら感じられる。
さらに同アルバムの『ラララ』では、温かみのある曲調とは裏腹に、超越的感性の代替物を模索する迷走ぶりが透けて見える。

簡単そうに見えてややこしく
困難そうに思えてたやすい
そんなラララ そんなラララ
探してる 探してる

参考書よりも正しく
マンガ本よりも楽しい
そんなラララ そんなラララ
探してる 探してる

太陽系より果てしなく
コンビニより身近な
そんなラララ そんなラララ
探してる 探してる
(『ラララ』)

「ラララ」という抽象的で曖昧な表現。「~ではない」という否定形を連ねることで超越性を浮き彫りにしようとする、いわゆる「否定神学」の隘路に陥っている。【es】や「シーラカンス」のように、超越性を記号で表象しようする試みは、とうとう「ラララ」というフレーズにまで抽象化され、否定形でしか言及できない脆弱なものになってしまった。
95年以来、囚われ続けた問題意識。活動休止を経てもなお立ちふさがる内外の二項対立。この閉塞を打破するきっかけとなったのは、00年のアルバム『Q』に収録されている『NotFound』である。

僕はつい見えもしないものに頼って逃げる
君はすぐ形で示して欲しいとごねる
矛盾しあった幾つもの事が正しさを主張してるよ

自分だって思ってた人格(ひと)がまた違う顔を見せるよ
ねぇそれって君のせいかなあ
(『NotFound』)

「見えもしないもの」=内面と、「形で示して」=外面を対比するアングルは相変わらずだ。しかし、「矛盾しあった幾つもの事」、つまり内外の多面的な食い違いを、それぞれが「正しさを主張している」と理解し、「自分だって思ってた人格(ひと)がまた違う顔を見せる」という混乱を、「それって君のせいかなあ」と穏やかに受け止めている。この時期から、それまで「虚飾」や「仮面」としかみなしてこなかった外面を、積極的に引き受けようとする姿勢があらわれだす。それを可能にしたのは、「外面とは本質を抑圧する『檻』ではなく、さまざまに表情を変える『本質の一部』である」という発想の転換である。
さらに02年のアルバム『It's Wonderful World』に収録された『ファスナー』では、巧みな比喩を取り入れることで、「檻」の解釈にいっそうの深化が加えられる。

きっとウルトラマンのそれのように
君の背中にもファスナーが付いていて
僕の手の届かない闇の中で
違う顔を誰かに見せているんだろう
そんなの知っている
(『ファスナー』)

他人の内部に本質の存在を予感しながら、あえて触れずに胸の奥に秘めておく決意。『DISCOVERY』の頃と比べると、格段に成熟した視線である。「自分らしさの檻」であったはずの虚飾的な外面は、いつのまにかウルトラマンや仮面ライダーの着ぐるみへと形を変え、畏怖すべき本質や内面を覆い隠す「隠れ蓑」となっている。曲の結末はこうだ。「惜しみない敬意と愛を込めてファスナーを……」。
仮面を着けて生きる自分を自嘲したり、外面と内面が不一致の女に冷笑的だった頃とは違い、外側と内側の齟齬を、いとおしく見つめる眼差しがある。
また、同アルバムの『one twe three』という曲。「戦闘服よりはブレザーがよく似合う」と嫌味を言われながら、いつか「有刺鉄線のリング」へと上がり「戦闘服のカウントスリー」を見せてやるという詞の、ブレザーから戦闘服への「衣装替え」が、「自分だって思ってた人がまた違う顔を見せる」(『NotFound』)の言い換えであるのは言うまでもない。桜井は前作『Q』で得られたヒントをさらに深化させ、檻や仮面を「特撮の着ぐるみ」とみなす、つまり外面を「着脱自在のコスチューム」と理解するようになったのである。
そして『深海』以降の二項対立図式の解消の流れは、11thアルバム『シフクノオト』(04年)の『HERO』でひとつの極点にたどり着く。

小さい頃に身振り手振りを
真似てみせた
憧れになろうだなんで
大それた気持ちはない
でもヒーローになりたい
ただひとり 君にとっての
つまづいたり 転んだりするようなら
そっと手を差し伸べるよ
(『HERO』)

これは言うなれば『ファスナー』の続編である。自らを、世界を救うために立ち上がれない「臆病者」で、「ちっとも謎めいてないし今更もう秘密はない」と卑下しながら、それでも子供の頃に憧れたヒーローになりたいと歌う桜井。このとき彼が熱望していたのは、檻の中や仮面の下にある「本当の自分」の解放ではなく、むしろ外側の「檻」や「仮面」そのもの、脆弱な自分を包み隠してくれる「ヒーローの着ぐるみ」であった。

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『深海』以降のミスチルの変遷は、自らを貫く超越的感性からの離別の歴史である。自分の内部の超越性を記号的に表現することで、「内面と外面」という二項対立の図式を導き出し、両者のズレや対立に苦しみながらも、外面を客観視することで止揚、新しい認識に至る。こうして Mr.Childrenは1995年からの問題意識を、約10年の歳月をかけて消化していった。
『シフクノオト』に続いてリリースされたミニアルバム『四次元』(05年)には、そのタイトル(四次元=時間)のとおり、彼らの成熟と喪失の歴史が刻印されている。前章で解説したように、『未来』は「I Love Tomorrowの思想」を喪失し、未来を愛せなくなった自身についての曲である。
『inoccent world』から10年。「未来」は確実に磨り減っていった。それに反比例して増えていく過去の重荷。「黙ってろ!この荷物の重さ知らないくせして」(『ランニングハイ』)。しかし、齢を重ねた桜井は、かつて自分を閉じ込める「檻」であった虚飾的な外面を、誇らしげに引き受けている。

なら息絶えるまで駆けてみよう
恥をまき散らして
胸に纏う玉虫色の衣装を見せびらかしていこう
(『ランニングハイ』)

(続く……かも)

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Mr.childrenの成熟と喪失(上)・檻の中のシーラカンス 

Ori


生まれたての僕らの前にはただ
果てしない未来があって
それを信じていれば 何も恐れずにいられた
そして今僕の目の前に横たわる
先の知れた未来を
信じたくなくて 目を閉じて過ごしている
(『未来』)

Mr.Childrenが2005年にリリースしたミニアルバム『四次元』の一曲目『未来』。同年のポカリスエットのCM曲でもある。制服姿の綾瀬はるかが疾走するCMの映像は実に爽やかであったが、引用を一読すれば明らかなように、『未来』の詞はあまりにネガティブで、映像にはまったく似つかわしくない。
ちょうど10年前、同じくポカリスエットのCMで使われていたのは、ミスチルのブレイクのきっかけとなった名曲『innocent world』である。1995年の桜井和寿は、宮沢りえがダチョウに乗ろうとする映像に合わせて、未来への希望を高らかに歌い上げていた。

Ah 僕は僕のままで
ゆずれぬ夢を抱えて
どこまでも歩き続けていくよ
いいだろう? Mr.myself
(『innocent world』)

この10年の間に、彼らはいったい何を失ってしまったのだろうか。

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山下邦彦の『Mr.Children Everything―天才・桜井和寿終りなき音の冒険』は、楽曲・詞・インタビューを元に、デビューから5thアルバム『深海』までのミスチルの変遷を読み解いた評論集である。この本の中で山下は、96年のアルバム『深海』を失敗作と断言。さらに『深海』の失敗が98年からの活動休止の原因になったと指摘している。
ミスチルの長いキャリアの中で『深海』を最高傑作に推すファンの数は少なくない。山下の「『深海』への批判はどのような文脈でなされたものなのだろうか。
山下は、ミスチルの大きな転機となったシングル曲として、『【es】~Theme of es~』を挙げている。

桜井和寿の歌には、ずっとひとつの声が響いていた。
"I Love Tomorrow"
しかし、「【es】~Theme of es~」を作り終えた彼の歌には、その声が失われていた。彼はYesterdayを愛することを覚えてしまったのだ。(中略)周りの「親しい友人」たちはよってたかって、彼の内部から「Tomorrow」を追い出すようなことをしてきたのだ。君の内部にあるのは「Tomorrow」ではない。君の内部にあるのは「es」なのだ、と。
(『Mr.Children Everything―天才・桜井和寿 終りなき音の冒険』)

同書によると、音楽を始める以前の桜井は、「人から褒められたことがない」「自分には取り得がない」という劣等感が強く、桜井の創造のモチベーションは、その欠落を音楽によって埋め合わせることができると信じたところにあった。それゆえ、桜井はいつでも「過去の自分」よりも「未来の可能性」を愛していた。
しかし、その創造性の根源たる「I Love Tomorrow」の思想を「es」という心理学用語で名付けたとき、桜井の、Mr.Childrenの音楽は決定的に変質した。
《「es」を自分の中に見つけ、そして俯瞰したとき、何かが終わってしまった……》
自分の中にあるモヤモヤとした表現欲求、衝動、リピドー。そういったものを桜井は【es】という心理学用語で説明しようとした。そのことで本来、「明日」へ向かっていたはずの衝動の方向性が変化してしまったというのだ。それも悪い方向に。
確かに年代順にアルバムを追っていくと、『深海』の時期から桜井の詞は変化している。けれども、「終わってしまった」という部分はどうか。むしろ、この方向性の変化こそが、その後10年以上もの長きにわたって彼らの表現を延命させたコアであり、それなくして現在のMr.Childrenはありえなかった、とは考えられないだろうか。
「I Love Tomorrowの思想」について、さらに掘り下げてみよう。以下は同書で引用されているメンバーのインタビューの一部だ。

――曲はどんな風にできてくるの?
桜井「もう天から降ってくるみたいな感じです。」
鈴木「思いつき、というやつか?」
桜井「や、降ってくるんだよ(笑)。曲を作るときはそんなに苦しまないんですね。詞は大変なんですけど。詞はね。」
(『Mr.Children Everything―天才・桜井和寿 終りなき音の冒険』)

いかにもアーティストらしい、神がかった体験だが、この発言にそのまま『innocent world』の詞を重ねてみることは難しくない。

いつの日もこの胸に流れてるメロディー
軽やかにゆるやかに心をつたうよ
日の当たる坂道を登るその前に
またどこかで会えるといいなイノセントワールド
(『innocent world』)

要するに、「イノセントワールド」とは桜井の頭の中にしかない「ゾーン」であり、そんな超越的な領域、音楽家としての天啓的なインスピレーションの源泉を、桜井は【es】という言葉で表現しようとした。

で、そうして曲が生まれる時って、興奮している。"あ、浮かんだっ!"っていう瞬間って、自分の力ではない気がする。まさに天から降ってくる、みたいに"来る"わけです。でも、二度とこういうことは、起こらないんだろうなぁ、とそのときは思う。(…)
その天から降ってくるという感覚が、つまり"es"なのかなぁ、という気がするんです。
(『Mr.Children Everything―天才・桜井和寿 終りなき音の冒険』)

スピリチュアルな発言だが、ふりかえってみれば初期のミスチルにはこの種の詞が少なくない。『CrossRoad』の「つかの間の悲しみはやがて輝く未来へ」や、『Tomorrow Never Knows』の「心のまま僕はゆくのさ誰も知ることのない明日へ」など。「未来」という概念に託された抽象的な超越性、そこに身を委ねようとする姿勢は、初期ミスチルの詞のひとつの特徴と言える。つまり、山下の指摘する「I Love Tomorrowの思想」とは、ミュージシャンに訪れる神がかり的な瞬間、超越的な感性に身をゆだねようとする姿勢そのものなのである。
しかし、『【es】 ~Theme of es~』以降、桜井はこの超越性を、具体的なアイコンによって表象させるという手法をとるようになった。
問題のアルバム『深海』におけるアイコンは、言うまでもなく「シーラカンス」である。この作品は幻の古代魚シーラカンスを自分の内部に捜し求め、最後「連れていってくれないか、僕も」と絶叫するところで終わってる。ここで桜井は、【es】という心理学用語で表していた超越性を、「シーラカンス」というより具体的な象徴に託したわけだ。
かつて脳髄の中に存在していたイノセントワールド(超越性)はシーラカンスへと姿を変え、桜井はそれを探しに自らの内面の奥底へと沈降していった。桜井和寿の長い内省時代の始まり。それは、天啓に貫かれる官能的な楽園を飛び出し、自意識を抱えて地べたを歩き出した芸術家の苦悩の日々であった。それがもっともよく表れているのが、『深海』に収録されている大ヒット曲『名もなき詩』だ。

あるがままの心で生きられぬ弱さを
誰かのせいにして過ごしてる
知らぬ間に築いてた
自分らしさの檻の中でもがいてるなら
僕だってそうなんだ
(『名もなき詩』)

イノセントでナチュラルな超越的感性に身を委ねていた桜井が、ここで初めて対立項として「自分らしさの檻」という概念を見い出している。「自分らしさの檻」のせいで「あるがままの心」で生きられない。桜井の中にあった「あるがままの心」、つまり超越的感性は、【es】からシーラカンスへと具象化され、自意識の「檻」の中に閉じ込められた。こうして「外面と内面」、「虚飾と本質」、「"演じている自分"と"本当の自分"」といったテーマ、内外の二項対立の図式が導き出される。以降、桜井の関心は「イノセントワールド」や「I Love Tomorrow」に象徴される「あるがままの心」から、それを抑圧している「自分らしさの檻」へと向かうことになる。
例えば、シングル『シーソーゲーム』のC/W『フラジャイル』。

回れ回れメリーゴーランド 土足で人の心をえぐれ
泣いて笑って人類兄弟 死相の浮かぶ裏腹な笑顔で
(『フラジャイル』)

「人類兄弟」というお題目に「死相の浮かぶ笑顔」を対置し、健全なメッセージの裏にどす黒い本質を読み取ろうとするこの詞は、「外面と内面の二項対立」というテーマの最初の萌芽と見ることができる。この種のアイロニーは、『深海』以前と以降を隔てるもっとも大きな違いであり、次のアルバム『BORELO』、そして活動再開後の『DISCOVERY』までの3枚のアルバムのカラーを決定付けている大きな要因でもある。

デルモって言ったら「えっ!」ってみんなが
一目置いて 扱って
4, 5年も前なら そんな感じに
ちょっと酔いしれたけど
寂しいって言ったら ぜいたくかな
かいかぶられて いつだって
心許せる人はなく 振り向けば一人きり
(『デルモ』)

この曲の主人公は、世界中を飛び回る売れっ子のモデルでありながら、「幸せ」がよく分からない寂しい女性である。「自分らしさの檻の中でもがいてる」(『名もなき詞』)というフレーズがこれほどあてはまる詞もない。その孤独で虚飾に満ちた生活を歌い上げる曲の間には、次のような一節がはさみこまれる。

母の優しき面影を
追いかけて唄う
ふるさとの子守唄
(『デルモ』)

演じることに慣れきって、もはや本来の自分との区別のつかなくなった悲しいトップモデル。その築き上げられた虚飾の「檻」の隙間から、ほんの一瞬だけ垣間見えた「本質」。少女時代の懐かしい記憶……。
「人間の二面性」、「内面と外面の齟齬」というテーマを抱えたこの時期の桜井の率直な想い、それは次のようなものであっただろう。

嘘や矛盾を両手に抱え
"それも人だよ"と悟れるの?
(『Everything(It's you)』)

(続く)

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2008年の『リバーズ・エッジ』

River子供たちが死体によって繋がっている。マイノリティたちを媒介する「死」。そして、ディスコミュニケーションの果てにまたひとつ、新しい死体が生まれる――。

「誰もがマイノリティでありながら、世界はまだマイノリティのものではなかった」。90年代の苦しみとは、この一言に尽きる。ケータイやネットのない時代、異端者はひとりぼっちで生きなければならなかった。居場所を見つけられないマイノリティの眼前に広がる「平坦な戦場」。
あの時代、私たちの異常性は発見し尽くされ、ありとあらゆるラベルが用意された。ゲイ、レズ、摂食障害、引きこもり、AD/HD、アダルトチルドレン……。にも関わらず、世界のクラスタ化はまだ始まってはいなかった。「病名」だけを与えられたマイノリティは、同じ境遇の者と慰めあうこともできずにひたすら孤立を深めていく。
ゆえに90年代の希望は「死」であった。人間はすべて必ずいずれ死ぬ。「死」は私たち全員にとって他人事ではない。どんなに隔たった他人同士であっても、最終的には必ず同じ「死」が与えられる。
だから子供たちはセイダカアワダチソウの茂る川原に向かう。死体を観賞するために。「死」を眺めているときだけ、私たちは同じ人間でいられる。ゲイにもレズにも摂食障害にも普通の少女にも、「死」だけは平等に訪れる。

あれから10年余。ネットの普及でマイノリティは格段に生きやすくなった。クラスや職場でひとりぼっちでも、ネットではたくさんの同胞が待っていてくれる。もはや私たちは「死」などという極限的な概念で他者と繋がる必要はない。
しかし、「ネット心中」という言葉が流行したときに気付くべきだったのかもしれない。どんなにネットワークが発達しても、コミュニケーションの輪からこぼれ落ちた一部の人々にとって、やはり「死」は究極の媒介項であるということを。

そして、「死」がもたらされた。

注目すべきは加藤の無個性ぶりである。加藤には憎むべき貧困も、頭の中のネズミ人間も、名門幼稚園へのコンプレックスもない。ネットを見回せばどこにでもいる本当に普通のオタク。しかし、それゆえに社会やネットの中では埋没する。
今や私たちはマイノリティが孤立していた頃とは逆さまの時代に生きている。「普通」であるという「欠陥」。普通すぎるがゆえに、どのコミュニティも自分の居場所とは感じられない、自らが宿命的に関わるべきコミュニティを見出せない。そんなとき、全ての人間に与えられた共感可能性、「死」による連帯が浮かび上がる。
加藤が国会議事堂や経団連を襲うはずがなかった。彼が本当に求めていたのは「死」を媒介にした他者との繋がりである。だからこそ彼は、同胞が集う秋葉原に乗り込み、自ら「死」を供給する死神になった。

「いったい死体はどこ行っちゃったんだろう?」

2008年、セイダカアワダチソウの茂る川原に死体はなかった。
山田や吉川こずえは異端者のコミュニティに自足し、「普通の」少女であるハルナとは分かり合うことなく雑踏の中に消えてゆくだろう。ゆえに「普通の」オタクである加藤は死神になるしかなかった。ケータイサイトで無差別に他者に語りかけながら、秋葉原で無差別に他者を殺戮するという、「奇妙な死神」になるしかなかったのである。

平凡であるがゆえに居場所を見つけられないマジョリティが降り立った「平坦な戦場」。
ケータイの代わりにサバイバルナイフを手にすることで、加藤は誰かと繋がることができたのだろうか。

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【日記】匿名であることの耐えがたさ

「がんだるふ事件」――後の世にはこう呼ばれるようになるのだろうか。さくらちゃん募金の不透明さを追求する、いわゆる「死ぬ死ぬ詐欺」祭りを毎日新聞が取り上げたところ、コメントを提供したHN「がんだるふ」が、掲載された内容に誤謬があるとして、毎日新聞記者の実名をmixi上で公開した、というのが事のあらましである。
この件で興味深いのは、がんだるふ氏が毎日新聞のインタビューで答えている匿名擁護の論法と、その行動のズレである。

 --匿名での攻撃はアンフェアでは。

 ◆名前は記号。本質は書いた内容にある。

書いてある内容が本質を突いていれば、発言した者が匿名であろうと顕名であろうと関係ない。これは匿名性を擁護する際によく使われるロジックであり、僕自身も同意するのにやぶさかではない。
問題はこの後。がんだるふ氏は、毎日新聞が署名記事を謳い文句にしなから匿名で特集記事を書いていることをダブルスタンダートであると批判し、毎日新聞の記者2名の本名と連絡先を公開する。しかし、言うまでもないことだが、この行為は上記の匿名擁護論とは真っ向からぶつかる。「名前は記号」に過ぎず、「本質は書いた内容にある」というのが彼のポリシーであるならば、なぜ、記者の個人情報をネットに晒すという行動に出たのか。「本質は書いた内容にある」のであれば、記事の内容だけを問題にすればいいはずだ。

この種の欺瞞は、現在の2ちゃんねるにもはびこっている。mixi登場以降の2ちゃんねるの「祭り」は、「個人情報あばき」に主眼が置かれているのは周知の事実である。つまり、ある言説を批判する場合に、そのメタレベルに遡及することで言説の前提を崩す。相手が言っている内容に逐一反論するのではなく、相手が「~な人間である」ことを暴き立てることで、その発言自体を無力化してしまう手法である。
ネット以前の名前が明らかなメディアでは、このメタへの遡上が前提としてあった。「何を言ったか」と同じくらい、時にはそれ以上に「誰が言ったか」が重視される世界。しかし、インターネットで匿名メディアが登場してからは、このパワーバランスは逆転し、「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」が重視されるようになった。そのこと自体には何の異論もない、むしろ歓迎すべき傾向であるように思われる。しかしそうである以上、現在の2ちゃんねるは欺瞞に満ちているように見えるのも確かだ。なぜなら、彼らは相手を論破するために、旧来の「誰が言ったか」を重視する論理を相変わらず都合よく使っているからである。

「名前は記号。本質は書いた内容にある」。この論法を本当にラディカルに信奉するならば、あの毎日新聞の記事を書いた人間が誰であろうと関係がないはずだ。論破すべきなのは、あの記事内の事実誤認や偏向であって、記者2人の名前や連絡先、またmixi内での行動や人間関係など、「誰が言ったか」に属するメタレベルの情報をあげつらうのは筋違いのはずだ。
僕自身、かなり原理的な匿名擁護論者である。つまり、発言者が人殺しであろうと大学教授であろうとネット右翼であろうとプロ市民であろうと同じように文面のみを評価し、発言者の内実は評価に加えない「テキスト至上主義者」であるということだ。これは旧来の考え方からするとかなり極端な態度であるが、しかし、そのような態度でないと、誰が書き込んでいるか分からない匿名掲示板の情報はほとんど無価値になってしまう。すべては書き込みの中に現れると信じ、書き込みからすべてを読み取ろうとする。これが、僕が2ちゃんねるから学んだ匿名世界の流儀であり、テキストの中に現れる以外の情報、つまり発言者のプロフィールに遡って発言の価値を検証する行為は邪道――とまでは言わないにしても、個人的なポリシーには反するものだ。

匿名の発言でしのぎを削ることに意味を見出しているはずの2ちゃんねらーが、なぜ嬉々として発言者の個人情報を暴くのか。これは彼らの大半が匿名の可能性――発言者が誰であろうとも平等なスタンスで議論できるというメリット、それがもたらす新しいパラダイムに耐えるだけの素養がないことを示している。
匿名掲示板2ちゃんねるは、「何を言ったか」が重視される言論空間の可能性を切り開いた。しかし、そこの集った人々は相変わらず、「誰が言ったか」にこだわる泥沼のような足の引っ張り合いを続けている。

果たして、匿名コミュニティが人々の言葉に対する意識を変革する日は来るのだろうか?

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【日記】ケータイと恋愛

IT社会においては、コミュニケーションの欲望だけが先走り、話のネタについては不足しがちな傾向にある。
手紙や電話の時代であれば、会話の機会は不足しても話のネタに事欠かくことはなかった。たとえば一ヶ月ごとに交わす文通には一ヶ月分の話題を書くことができる。3日に一度の長電話には3日分の話題がある。「恋は障害があるほど燃え上がる」とよく言われるように、コミュニケーションの機会が少ないほど交流は濃密なものとなる。現在では死滅した文化に「ラブレター」というものがあるが、よくステレオタイプに挙げられる仰々しくもブンガク的な文面、「僕は貴女のことを海よりも深く、山よりも高く愛しうんぬん」といった類のものは、会話の機会の少なさゆえに、個人の中で熟成し発酵した「想い」が発露した、古き良き時代のコミュニケーションと言えるだろう。

しかし、ケータイが登場し、さらに24時間いつでも送受信可能なメール機能が付いたことで、コミュニケーションはきわめて希薄なものとなった。その気になればいつでも連絡できるという利便性が、文章表現の熟成と発酵の機会を奪ったのである。今の僕たちには「話す機会」は無限にあるが、「話したいこと」はとても少ない。いつでもメールできるからこそ、「おはよう」や「おやすみ」「いま何してる?」「お疲れ」といった他愛もない言葉ばかりが交わされ、そこで重視されるのは、文章の中身よりも送信頻度と返信までの所要時間だ。一日に何度もメールが来る、メールを送るとすぐにレスポンスがある。これらが関心の高さ、ひいては愛情の深さを測るバロメーターとなり、内容は二の次。今や、たった10秒で書けるようなお手軽な文章が来たり来なかったりで、人々は一喜一憂しているのである。

このように、メール恋愛におけるコミュニケーションの特徴は「頻繁な送信」「迅速な返信」「希薄なメッセージ性」である。うち、「頻繁な送信」と「迅速な返信」に関しては、性格と習慣に拠るところが大きい。要するに前者は「マメな男」であり、後者は「律儀な男」である。いつの時代でも、女性に対してマメで律儀な男はモテるものだ(みんなもマメで律儀な男を目指そう!)。
問題は3つ目。コミュニケーション頻度の多さゆえの、メッセージ性の低さだ。このメールの「質」よりも「回数」が重視される状況では、内面的な人間ほどメールを使いこなせない傾向にある。手紙の時代には、内面を文章に反映させる能力、つまり「文才」ある人間は恋愛においても有利であったはずだ。しかし、ケータイ時代においては、内面など「足かせ」にしかならない。深い愛情ゆえに、ありきたりの文句ではなく自分の言葉を相手に伝えようとする、その発想こそが実は大きな罠。推敲された分だけ送信頻度は減り、返信は遅くなり、現代の恋愛の基準においては失格の判定を下されることになる。この不毛極まるIT時代においてブンガク青年が恋愛競争を勝ち抜こうとするならば、最愛の人への繊細な「想い」に反し、テキトーなメールをバンバン送り続けなければならないのである(なんたる不条理!)

かくして、ケータイが中心の恋愛社会においては、DQNが圧倒的に幅を利かせることになる。無頼派からニューアカに至るまで、モテ男の一類型であったはずの文系インテリ青年は、21世紀において完全にその座から滑り落ちた。現代の若きウェルテルたちは、メールの量産競争に敗北しその存在を忘れられてゆく。報われない少数派である彼らはやがてブログやmixiに行き着き、そこで細々とブンガク的な内面を吐露するだろう。
逆に、ブログやPCメールなど長文表現が確立されているインターネットの世界から見れば、ケータイのメール文化は「深く考えずに打ったもん勝ち」であり、取るに足らないものとみなすこともできる。所詮ケータイは不完全なパソコンであり、その機能はインターネットの簡易版に過ぎない、と軽視するパソコンユーザーも少なくないはずだ。
しかし、現代日本において、ケータイの普及率はあまりに圧倒的だ。ブログやmixiで長々と内面を綴ったところで、肝心のあの娘は読んじゃくれない。職場で、路上で、電車の中で、ケータイとにらめっこしている御婦人方を見よ。いかに希薄なコミュニケーションがブンガク青年たちを窒息させ、人々の内面をJ-POPの歌詞のごとき紋切り型に押し込めていようとも、世の中の女性の大半はケータイのメールに夢中なのである。

ケータイとは、「人々の内面的言語を空疎化する装置」であり、「メディアによる一億総白痴化の最終兵器」であった!(笑) なんともゆゆしき事態ではあるが、しかし、そんな御託をひとしきり呟いた後で、目の前の恋愛に乗り遅れないためバカバカしいメールの量産競争に参加すること。これが現状、僕たちのよりベターな選択であることは言うまでもない。時代遅れのブンガク青年たちは、今日もため息交じりに何度目かの送信ボタンを押すだろう。深い想いを軽い言葉に託して……ポチッとな。

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【日記】Napsterと魂の在処

何の雑誌かは忘れてしまったが、斉藤環が『攻殻機動隊』の設定に面白いいツッコミを入れていた。
『攻殻』の世界では、電脳によりデジタル化された体験や記憶を、コピーして他人と共有することができる。しかし、ゴースト(魂)だけはそれができない。ゴーストのコピーは重罪である上、たとえコピーしても劣化するため、同一のゴーストを持った人間を2人以上作ることはできない。だから、何度義体を乗り換えようと草薙素子のオリジナリティは揺るがない。どんな義体であってもゴーストを転送すればそれは草薙素子になるし、ゴーストが入っている義体が機能停止すれば素子は死ぬ。このゴーストこそが『攻殻』世界での「生命」の定義である。
しかし、よく考えると「転送」はできるのに「コピー」できないというのは奇妙な話だ。われわれのパソコンでそうであるように、デジタル世界の「転送」というのは「元のファイルが削除されるコピー」であって、両者の間に原理的な違いはない。デジタル化したゴーストを「転送」できる以上、「コピー」もできなければおかしい――。

ゴーストがコピーできるということは、すなわち「不死」ということである。ドラマ的に不死では都合が悪いので、「ゴーストの唯一性」という設定を必要とした――こう説明することは容易だ。しかし、僕はこの文章を読んだとき、まったく別のことを考えてしまった。それは『攻殻』世界においても、実はゴーストのコピーは無制限に可能なのではないかということだ。技術的に魂を含めた精神のすべてをコピーすることはできる。しかし、それでは「人間」と「人形」の境界がなくなってしまう。だから、密かに「コピーガード」を設置してゴーストの完全なコピーを妨害し、ゴーストという唯一性を仮構しているのではないか。つまり、『攻殻』の人々はコピーガードにより、ありもしない「ゴースト」などというものが存在することを、信じさせられているのではないか。

もちろんこんな裏設定は存在しない。完全に僕の妄想である。だが、この妄想は昨今のデジタルコンテンツにかけられているコピーガードから連想したものだ。既にお亡くなりになったCCCDや、緩和の方向に進みつつあるデジタル放送のコピーワンスは、元はといえばコンテンツの唯一性を守るためのものであり、アウラを取り戻すためのものであり、ひいては「失われた魂」を捏造しようとする試みである。二度と再現されない生演奏から、ビニールの円盤、プラスチックの銀盤を経て、実体のないデジタル情報へ。表現の「聖性」が蒸発していく過程の最終段階に僕たちはいる。それが果たして幸せな時代と呼べるのかについては、一考の余地はあるだろう。

先日、悪名高いファイル交換ソフトの始祖である「Napster」、その名称を引き継いだ音楽配信サービスが国内で開始された。だが、このサービスにかつてのNapsterを重ねて見る者は少ないだろう。初代Napsterの開発者であるショーン・ファニングは、最後まで無料で音楽を聴けるサービスにこだわり続けた。この旧Napsterが目指した理想を知る者にとっては、月々1280円の料金と引き換えに150万曲に及ぶ楽曲が聴き放題となる新Napsterは、自由と商業の綱引きの間をとった折衷案に見えるはずだ。さらにiTMSにより合法的な音楽配信が整備された現在において、新Napsterの「定額聞き放題」には有線放送程度の意味合いしかないのではないか……?
しかし、実際に使ってみて分かったこと。それはこの新Napsterが、他ならぬ旧Napsterが扉を開いたP2Pの時代、その次の段階へとパラダイムシフトをうながしうるサービスであるということだ。

僕の自宅の押入れには、多数のダンボール箱が眠っている。これまでに購入した音楽CDの入った箱である。いったんリッピングしてパソコンに取り込んでしまったCDは二度と取り出す機会がない。ダンボール箱の中には、少ない小遣いを握り締めドキドキしながら手にとったCDや、全曲脳内で再生できるまでに聴きこんだCDもある。それだけではない、地元の中古屋で投げ売りされていたCD、高校時代に友達から借りパクしたCD、昔の彼女のすすめで買ったCD……。その頃、プラスティックの銀盤には確かに「魂」が宿っていた。しかし、いまや抜け殻と化したCDは押入れの奥でホコリをかぶっており、パソコンの中には音楽そのものがデータ形式で保存されている。このとき、僕たちは気づかないうちに何か大切なものを失った。とはいえ、それでもまだ画面の中の音楽ファイルはCDの代替物であり、われわれの欲望を喚起せしめる存在であった。

旧Napster→WinMX→Winnyと続く日本の非合法P2Pの歴史は、その欲望――つまり「所有欲」によって牽引されてきた。常時接続のブロードバンド回線と大容量HDDを確保した人々は、ネットワーク上のデータをとり憑かれたように集めだし、「回線が空いていると落ち着かない」とまでうそぶく大量のダウンロード・ジャンキーを生み出した。彼らのパソコンには、すでに何年かかっても消費しきれないほどのコンテンツが溢れかえっていたが、それでも欲望の赴くままに際限なくダウンロードは行われ続けたのだった。
転機が訪れたのは2005年冬のことだ。ファイルで一杯の大容量HDDをぶら下げながらネットを巡回していた人々の前に、「YouTube」が現れた。P2P時代に手に入れた動画ファイル、それもかなり入手に苦労した自慢のレア動画が、あっけなくYouTubeで公開されている。あのダウンロードに明け暮れた日々は一体何だったのか。そう思わせるだけのインパクトをYouTubeは備えていた。ウェブ上でいつでも自由に動画を見られるなら、わざわざダウンロードしてHDD容量を圧迫する必要はない。「狐が落ちた」とでも言うべきであろう。かつてあれほど人々を熱烈に捕らえていた「所有欲」という煩悩は、あっさりと力を失ったのである。
こうして外れた最後の「たが」――「水道や電気のようにウェブから供給されるコンテンツによるパソコン内に保有したファイルの聖性蒸発」とでも呼ぶべき現象は、音楽の世界でより完全な形で再現される。新Napsterの150万曲のデータベースから、いつでも好きな曲を引き出せるという現実を前にしたとき、HDDに詰め込まれた数十メガに及ぶ音楽ファイルのコレクションは、だたの場所塞ぎでしかなくなってしまうのだ。
そして、大量の音楽ファイルが書き込まれたDVDが、あの「音楽の抜け殻」の眠るダンボール箱の中にそっと忍ばされることになる。アングラ時代から長らく続いた「ダウンロード」という行為に象徴される欲望の痕跡。それを押入れの中に突っ込んだとき、僕はまたひとつ、大切なものが失われてしまったことに気が付くのだろうか?

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巨大な水槽の前にいる。水槽の中にはたくさんの女の子が漂っている。笑いながら――。
『新世紀エヴァンゲリオン』の1シーンである。戦いの中で少しずつ人間らしい感情を獲得していった綾波レイは、最後に涙を知り自爆して果てる。すべての感情と記憶が灰燼に帰した後に現れた、「3人目」の綾波レイ。そしてLCLの水槽の中を漂う「無数の」綾波たちの群れ。
いま僕たちが直面しているのは、まさにこのときの碇シンジの体験そのものである。我々(=シンジ)にとっては、レイの魂がリリスであろうと碇ユイであろうとどうでもいいことだ。あの喪失感は、初号機のゲージで初めて出会ってから使徒に侵食され自爆するまでの、記憶と感情に由来している。水槽にゆらめく大量の綾波レイを初めて見たとき、シンジは呆然とするしかなかった。まるで自分だけの思い出の詰まった愛聴盤を、音楽の無限の水槽Napsterの中に見つけてしまったときの我々のように。
赤木リツコは言う。「人じゃないもの、魂を持たない、人の形をしたモノなのよ」。作中ではまるで魂が実在するかのように語られているが、むろん、音楽CDにはここで言われているような意味での魂は宿ってはいない。しかし、新Napsterに至るまでのテクノロジーの進歩の中で、我々は「魂」とでもいうべきものの喪失を体験してきたはずだ。それが何に由来する現象(=幻想)であるのか、手がかりは最初に示しておいた。「魂」とは勝手に宿るものではない。かけがえのない思い出とコピー制限によって、周囲の人々に幻視されるものなのだ。

最後に、このシーンについて当時そこかしこで交わされた下品な冗談について触れておこう。水槽に浮かぶ綾波たちを見てオタクたちはこう言ったものだ。「壊すくらいならダッチワイフ用に一人欲しいなあ(笑)」。しかし、僕は彼らの死体愛好的・人形愛好的な悪趣味を笑うことができない。青春時代を共に過ごしたCDを押入れに放り込み、Napsterの中の「魂なきデットコピー」を聴いている今の僕には。

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【日記】子猫・ファシズム・2ちゃんねる

人間が子猫を殺してはいけない究極的な理由というのは存在しない。
これは残念ながら、どうしようもないことだ。

たとえば「死に舞」さんは坂東の文章について、「ペットという人間と動物の関係において道徳は無力であり、その不可能性を書いたもの」という解釈の上で、「たしかにそれは一つにはあり得る話で、そういった立場もあっても良いかもしれない」と(恐らく渋々ながら)認めている。
また、「未映子の純粋悲性批判」でも「殺してはいけないという絶対的な理由なんかはこの世界のどこにもなく」「あらゆる倫理に強制力はない」と、そのものズバリ結論を明かしてしまっている。要するに、「子猫殺し」を道徳的・倫理的な観点から突き詰めて批判するのは難しいんですな。

これらを前提にした上で、それでも「子猫殺し」を批判するならば、「理由は正直ないんだけど、まあ見ていて気分のいいもんじゃないし、法律的にもマズそうだし、避妊させた方が猫的にもいいだろうし、やめた方がいいんじゃね?」くらいの、口ごもり気味で切れ味の鈍い言葉になってしまう。これは僕が抱いた正直な感想でもあるのだが、自分で簡単に反駁できてしまうのが悲しいところだ。僕の「気分」には何の強制力もないし、法律違反だから止めろというのは批判として貧しいし(法律がなければやってもいいのか?)、避妊したいか産みたいかは親猫に聞いてみなけりゃ分からない。
この問題に言及したエントリをいくつか読んだが、中でもここで取り上げたふたつは明晰な部類である。が、それでも道徳的な判断に踏み込めない以上、切れ味が鈍いことは否めない。道徳・倫理的な判断を迂回しながら、坂東の文章の論理的な不整合、またその文章を発表した行為自体へと批判はスライドしていき、本質である「子猫殺しは許されるか」という問題からはズレていく。
しかしながら今回の場合、本質的な部分の判断を慎重に保留し、迂回する態度をとっているからこそ、これらは優れた批判であるとも言える。最初に書いたように、人間が猫を殺してはいけない絶対的な理由など存在しない。だからこそ本質を保留し迂回せざるをえないわけで、僕らはそこに、ある種の「口ごもった」感覚を読み取らなくてはならない。

さて、ここからが本題。この問題への反応を批判し話題になっているココヴォコ図書館の「衆愚化は子猫の夢を見るか?」。その要点は次の一文に集約される。「「子猫を殺すなんて人間とは思えない!」なんて大合唱するタイプの人間は、簡単に人をガス室に送ることが出来るだろう」。要するに安易な坂東批判に対して疑問を投げかけ、そのやり口がファシズムへと接近していることを指摘しているわけだ。
確かに、坂東批判の大合唱には上述したような「口ごもり」が決定的に欠けている。道徳的・倫理的な批判の本質的な不可能性や、それに伴う逡巡が感じられない、あるのは朴訥な脊髄反射の感情論。これは上の3つのブログの繊細な議論に比べたら暴論であり、一面的な押し付けであるように思える。ということで、僕はココヴォコ図書館のエントリに、ほぼ同意である。

そして、ココヴォコ図書館に対するロリコンファイルの批判は、首をかしげざるをえないというのが正直なところだ。特に、「きっちり文章を書く力はない」人の言葉を過大に評価している部分は、2ちゃんねるやはてブに好意的な僕であっても、疑問を感じる。はっきり言えば、「きっちり文章を書く力はない」人に対しては、過不足なくその程度に評価すれば十分である。だいたい「一行コメントをそっと書く、そういった心の営み」と言ったところで、何も考えず適当に書いたコメントと区別できなければ、その隠された「心の営み」には何の意味もない。仮に口ごもり、逡巡した末に書かれた一行コメントであっても、それが読み取れなければ同じことで、言葉にならなかった部分まで類推して賛美するのはナンセンスである。
つまるところ、これは「口ごもり」のあり方の問題だ。上記のブログが根源を迂回して作り上げた空洞は評価できる。しかし、一行コメントの意図したかどうかも分からない根源的空白は評価できない。

また、同じく引用されている小林よしのりの2ちゃんねる評。ここから読み取れるのは、目に見えない「心の営み」というよりは、むしろ上記のブログに通じる「口ごもり」の感覚である。
小林は2ちゃんねるの「生意気な罵詈雑言」に対しては批判的だが、「生意気な罵詈雑言」と同時に「弱気な自省」が共存している点に関しては肯定的である。小林をボロクソに叩く一方で、「俺らいっちょまえに批判してるけど実際小林にかなわないよね」と自虐的な本音を吐露せずにはいられない2ちゃんねらー。彼らは小林批判を展開しながらも、「自分が小林を批判するに値しない人間である」という不可能性を自覚し、かつそれを馬鹿正直にも告白している。
この分裂は、彼らなりの「口ごもり」の表出であると考えることができる。自分の意見を表明しながら、その意見を根底から覆すような要素にまで言及せずにはいられない、自己矛盾の可能性を孕んだ言説。共通しているのは、脊髄反射のピュアな感情論ではなく、拘泥、逡巡、屈託といった割り切れない感覚だ。上記のブログではこれらが本質からのズレとして現れ、2ちゃんねるでは態度の分裂として顕現している。前者は倫理の問題、後者の自意識の問題であるが、彼らの言葉の「切れ味の鈍さ」は、ポピュリズムから全体主義へとつながる大衆動員の回路を、機能不全に陥らせるだろう。「罵倒」と「自省」の共存、好き放題にレスをつけながらも、どこかその不毛さや無意味さや不可能性と無縁ではいられない。この選民思想とは真逆を向くバランス感覚は、全体主義化へのストッパーとして機能するはずだ。

もっとも、いったん「祭り」になるとこのストッパーが簡単にトンでしまうところに、2ちゃんねるのどうしようもなさがあるんだけどね。肝心なときに役立たずなんだよなー、連中の「自省」はよー。

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【日記】「2ちゃんねるは議論できる場所ではない」

「2ちゃんねるは議論できる場所ではない」
こういった批判を耳にすることは少なくない。その最大の要因として挙げられるのが、書き込みの追跡が不可能な点である。ある意見の持ち主を論破しようとしても、匿名であるためすぐに逃亡する。それだけならまだしも、他人のふりをして擁護意見を書き込む。過去の発言をなかったことにして都合良く立場を変える。ID制の導入により多少状況は変わったとはいえ、匿名掲示板は基本的にこういった詐術がまかり通る空間である。対面のディスカッションに慣れた人が、こういった「責任の不在」を致命的な欠陥と考えるのも無理はないだろう。
しかし、僕のように2ちゃんねるでばかり議論をしてきて、2ちゃんねるで議論の仕方を学んだような人間にとっては、むしろブログやmixiといった非匿名環境における議論の方がはるかに不自由に感じられる。なぜなら、名前が明かされているということは、自分が何者であるのかを説明しなければならないということからだ。

例えば、ある作品を批判する。すると、その刃はすぐさま自らへと跳ね返ってくる。「お前はそれを批判するだけの資格があるのか」と。そういった「反作用」を言葉と論理の力でねじ伏せる。対象となる作品と釣り合う、もしくは凌駕するだけの文章を編み出すのが、「批評」本来のあるべき姿であろう。しかし、コミュニケーション空間にあっては、毎度そんなものを開陳するわけにはいかない。掲示板やコメント欄に「ゲド戦記つまんね」と書き、それに対して「お前、そんなこと言えるほど映画知ってるのかよw」と逆に批判された場合、非常に厄介な事態が現れる。
ここでは、端的に「発言者は何者であるのか」が問われている。普段映画を見ない初心者なのか、それともジブリだけはチェックしてるファンなのか、毎週ほとんどのアニメを録画しているアニオタなのか、古今東西の映画を知り尽くした映画マニアなのか。もちろん後者になるほど説明が困難になるのは言うまでもない。大抵の場合、マニアックな作品の挙げ比べになり、俺の方が詳しいぜ競争になり、「作品を語る資格」を巡る議論ばかりが加熱し、議論は本題からどんどん外れていく。
こうした不毛な議論は、それこそニフティ時代の伊藤剛VS唐沢・岡田のバトルから、最近の2ちゃんねるに至るまで、ネット上には山ほど転がっている。発言者の発言自体が発言者のあり方を問うという「再帰性」によって、インターネットの議論はがんじがらめにされているのだ。
(もちろん、すでによく知られている人間の場合は、この「厄介さ」からは自由でいられる。竹熊健太郎が「ゲドつまんね」と書いても、誰も再帰的な批判を突きつけない。また、お互いがよく知っている者同士の場合も同様。これは議論の相手が「未知の他人」だからこそ発生する問題である)

この「再帰性」から逃れる可能性は、実は匿名掲示板にあるのではないか、というのがこの文章の趣旨である。確かに2ちゃんねるは上述したような再帰的な議論の温床となっている。しかし、2ちゃんねるは「ネットの最下層」「便所の落書き」であることをまっとうすることで、この再帰性をキャンセルできるかもしれない。
例として、最近ひろゆきが滅茶苦茶な規制を入れたばかりの某ニュース系の板を挙げてみよう。ここは、まさに「便所の落書き」と呼ぶにふさわしい腐れ板である。著名人や知識人による2ちゃんねる批判のスレッドが立つと、「クズですが何か?」「ゴミ溜めですが何か?」と言わんばかりの開き直った反応。誰かがちょっと気取ったモテ系のスレを立てると「キモオタ乙」「エロゲオタ必死」の大合唱という、自他共に認める2ちゃんねる最下層である(彼らはVIP板こそが最下層と主張するだろうが・笑)
しかし、これは「虚構」である。全国で100万人もいないニートや引きこもり、また50万人もいないエロゲ愛好者が、2ちゃんねる上位のアクセス数を誇るこの板で、大多数を占めるわけがない。この板の住人の大半は普通の学生や社会人のはずだ。にも関わらず、彼らはお互いを侮蔑しあうことで「ネットの最底辺」を仮構している。
ここで仮構された「最底辺の住人像」には、再帰的な議論を担保し、その「返す刃」を保留する機能がある。要するに、皆が「住人は最底辺のクズだ」と思っている以上、誰もがそこを起点に議論を始めるしかないのである。もちろん、自己主張を捨てられない頭の悪い人もたまにいるが、誰もそんな話には興味がないし、ハナから馬鹿にしきっている。多くの住人は、自分がクズであると思われることを前提の上で、書き込みをしている。そして、ここではあの厄介な再帰性は問題にされていない。

「2ちゃんねるは議論できる場所ではない」。確かにそれも一理ある。しかし一方で、まったく逆のテーゼもありえる。「もはや2ちゃんねるでしか議論はできない」。見知らぬ他人同士が議論を始めるための土台作り、趣味を開陳し、生き方を提示し、考え方を述べる……。そういった、本来長い時間が必要な準備作業を、すべて「最底辺」という基準にまとめてしまう。いささか乱暴ではあるが、センス自慢のメタゲームに疲れた人々は、そこで初めて再帰性の縛りから自由になり、思う存分に議論を展開できる。最底辺の掲示板の、最底辺の住人を演じながら。
そして、「最底辺」の立ち位置だからこそ、そこでの議論は誰もが共有できる普遍性を持つ。「お前は”勝ち組”だからそんなことが言えるんだ!」なんて疎外感による陳腐な反論はありえない。「中卒ニートのビザデブ(仮)」同士による議論は、社会的なヒエラルキーが無効化された先にある、開かれた議論である。

今日、見知らぬ者同士が議論を戦わせるためには、あまりに多くの前提が必要である。だから僕たちは、まとめて「最底辺」と括られることを恐れるべきではない。それは議論の成立のために必要な一種の「コスプレ」なのだ。

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【日記】オタクVSサブカル、再び……

[投げつけ][断片]勘違いする余地がないのは、幸せなことか、不幸せなことか
に対する批判
これから音楽に出会う若い人たちへ~ダッシュ君、そしてダッシュ君と同じ気持ちの人に向けて~
について。
どうも誤読に思えるので、オオツカダッシュを擁護しますね。

「サブカル」というのは他者性に裏打ちされた文化である。これは近年「動物化した」といわれている「オタク」と対比すると分かりやすい。「動物化」とは他者の視線の失われた、スノビズムなき世界へのシフトを意味する。家畜が餌を食うように、ジャンキーがドラッグを打ち込むように、娯楽に接する態度ですね。京都の料亭で懐石料理に舌鼓をうったり、船来の葉巻を嗜むような「気取り」の文化とは対極に位置する、唯我論的な気持ち良さ、他者性なき快楽主義の文化を「動物的」と呼ぶわけです。

オオツカダッシュの人が言いたいのはおそらく、他者に開かれていたサブカルとその信奉者たちが、この「動物的」な世界へと取り込まれていくことへの危惧なのではないかと思う。
サブカルとは本来コミュニカティブな文化であり、社会の中での位置付けが重要視される。いかに信奉者が「単に好きだから」という理由で愛好していようと、サブカルの世界では相対的なポジションが重要視されるのは、現実を見れば分かるとおり。音楽マニアのセンス競争など、その最たるものではないですか。もっとも、モノに溢れた現代では、ある程度まわりを見ながら商品を選ぶのは当然であり、その行いは何ら否定されるべきものではないと、個人的には思うわけですが……。

で、ここからが本題。確かにサブカルは他者に開かれた社会性を重んじる文化である。しかし、サブカル好きが同胞を見つめる視線が、「動物化」し始めている。ブログやmixiででマイ・フェイバリット・アーティストを公開している人は少なくないけれども、これに対してオタクがネコミミやアホ毛、メイド服の組み合わせを愛好するのと同じような類の欲求を抱いてしまう。萌えキャラを構成するパーツの順列組み合わせに欲情するように、マイ・フェイバリット・アーティストの並びに魅かれてしまう、という現象です。これは、あらゆるアーティストやその作品が、フラットにデータベース化された世界ならではの欲求なのだが、ここからは他者性や、それがもたらす緊張感・異物感といったサブカル本来の要素は、完全に失われてしまっている。
オオツカダッシュのトニオ君の言う「勘違いの起きる余地のなさ」「オサレの行き過ぎ」というのは、「オサレ女子向け名盤リスト」のデータベースから一歩も出ずに、「"サブカル女子萌え"オタク」の嗜好にカッチリとはまってしまうこと。これを指しているのではないのか。このデータベースは「ユリイカ」「スタジオボイス」といった雑誌により随時補強され、生温く安全な箱庭を若者に提供している。この箱庭の中で遊ぶのは、お手軽にサブカル気分を味わえて大変楽しいのだが、サブカル好きが年長者の掌の上で踊らされているさまは、まったくサブカル的ではない。あらゆるサブカル愛好者がデータベースを元に、趣向の組み合わせによって理解の枠にはめられ、安全な「萌えキャラ」として年長者に愛でられる。この動物的な関係の構造には、本来サブカルが備えているはずの他者性も社会性もまったくない。

そう、これは昨年夏の「オタクVSサブカル」の延長。オタクによるサブカル方面への静かな侵攻を意味している!(笑) このままではサブカルはオタクに取り込まれ、オタクのいち領土として細々と生き延びていくことになるだろう。すでに年長者の一部は懐柔された。彼らは確かにサブカル文化を好んではいるが、同胞(特に女子)の受容の仕方は明らかにオタク的だっ!

という冗談はさておき、オオツカダッシュの文章は、「ハイセンスな俺様目指して頑張りな!」というスノビズム丸出しのセンス自慢ではなくて、むしろ「確かに趣味はいいけど、俺ら年長者が萌えるような優等生的なチョイス。それって"サブカル"と違くね?」ということが言いたかったのではないかと、僕は思うのですよ。違ったらごめん。

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【告知】PLANETS

02b惑星開発委員会の冬コミ向け同人誌『PLANETS』に寄稿しました。

タイトルは
『単純すぎる「2ちゃんねる」と複雑すぎる「世界」』。
内容はおおむね2ちゃんねる批判です。
VIPPERはシネ!とかそんな感じ(嘘)

コミックマーケット69
12/30(Fri) 東ム-19a 『雑誌の住人』委託販売
定価1000円(税込)

そういえば、コミケって一回も行ったことないんだよなあ……。

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