【書評】グランド・フィナーレ/阿部和重

FIN阿部和重の描くロリコンは格好いい。前作『シンセミア』のロリコン警察官・中山正は、女子高生の彼女を足蹴にしながら美少女小学生をこよなく愛する男で、DQN軍団の目指した監視社会の実現にただ一人、正面から立ち向った切れ者だった(それはノーマルな既婚者でありながらうだつのあがらない田宮博徳とは対照的だ)。本作の主人公である沢見も37歳バツイチのオッサンとはいえ、しょっちゅう代官山のクラブでドラックキメてラリってるような遊び人で、おまけに美人Iとの仲を彼氏のYに疑われる程度にはモテる男らしい。
芥川賞の選考委員・宮本輝は、本作を阿部の以前の作品と比べて「小説の芯が太くなった」と評価したが、それはロリコンをテーマにしながら、ヒキコモリ系不細工キモヲタのグロテスクな生態という、ありがちなパターンに落とし込まない、複雑な内面や性癖を持ったキャラ作りの成功だろう。実はこの複雑な内面・性癖については、三島賞を取り逃がした前々作『ニッポニア・ニッポン』でも試みられていたが、このときは同賞の選考委員でもある宮本輝に一蹴されている。この明暗を分けたポイントは、やはり本作のテーマである「ロリコン」に尽きるのだろう。

『ニッポニア・ニッポン』の主人公・鴇谷春生のは自分の苗字に「鴇(トキ)」という言葉が含まれることから、トキに対して異常なシンパシーを抱き、佐渡島のトキの開放もしくは暗殺を企む。これは処女作『アメリカの夜』の主人公・中山唯夫が、フィリップ・K・ディックの小説『ヴァリス』から運命的な啓示を受けたと思い込み、物語世界に埋没してゆく構図を引き継いではいる。しかし、いかにトキが「天皇」や「日本」のメタファーであったとしても、それを世間のプチ右翼が自らに引き付けて問題意識を共有できたかは、はなはだ疑問である。ディックの小説に自分をなぞらえる『アメリカの夜』から、トキに自分をなぞらえる『ニッポニア・ニッポン』へ。主人公が依存する超越的存在を阿部は巧妙にすり替えたが、読者の興味の喚起力という点では、その試みは必ずしも成功したとは思えない。異常犯罪者とはいえ後者はあまりに読者の共感に欠けている。平たく言えば「トキヲタクなんて知らねえよw」って話だ。
そして、『グランド・フィナーレ』である。『ニッポニア・ニッポン』には、鴇谷が犯行に赴く際に少女のために犯行の決心を鈍らされるシーンがあるが、今にして思えば、これは『グランド・フィナーレ』の「兆候」だった。『ニッポニア・ニッポン』で鴇谷は少女とトキを天秤にかけトキを選択したが、『グランド・フィナーレ』の沢見は迷うことなく「少女」に突き進む。トキだ桜タンだと迷走していた変態野郎がその志向性をはっきりと少女に向けた「ロリコン文学」である本作は、神町サーガというだけでなくテーマにおいても、『ニッポニア・ニッポン』のアナザーストーリーであり、同時に全国ウン千万のロリコン予備軍のための物語である。
『ニッポニア・ニッポン』で鴇谷が、さまざまなメディアを見聞きしてトキの開放もしくは殺害の決意を固めていったように、本作の沢見も多彩なメディアを経由して少女たちを鑑賞している。カメラで撮影しストレージメディアに収められた少女たちの裸体。伊尻が携帯電話のカメラで撮影してきた8歳になったばかりの娘・千春に衣装を着せた画像。そして亜美と麻弥には、「お芝居」というメディアを通して沢見は接近してゆくのだ。
ディックの小説、メディアの中のトキ、HDDの中の少女。超越的存在はいつも虚構の向こう側から現れる。そしてこれらに心酔し、欲望のまま手を伸ばそうとするのも、やはり阿部作品の登場人物の常だ。『グランド・フィナーレ』の終盤、沢見は自らの手で美少女二人を、「舞台」という虚構の世界へ押し上げようとしている。この行為は沢見がかつて手を染めたロリコン写真の撮影と本質的には同義であり、巷で言われているような、沢見の「社会復帰」や「更正」などでは、明らかにない。

やっかいなのは、『ニッポニア・ニッポン』で鴇谷がトキを殺害/開放しようとする動機が、檻に囲われて生き恥をさらすトキへの同一化という、彼個人の特殊な思想であったのに対して、本作の沢見の場合、二人の可憐な少女のための思い出作りという普遍的な感情で動いてるところだ。沢見が代官山のクラブでアルコールとドラッグと風邪で朦朧としながら聞いていたアフリカの子供の話。過激派グループにより誘拐され兵士に仕立て上げられるウガンダの子供のこと。こういった、大人の都合による子どもたちの悲劇に、若いIやYたちは現実感を持てないながらも憤慨する。だが、これらのエピソードは、アホなトキ誘拐犯の兄貴のせいで村八分にされ、転校しなければならない少女の状況にそのまま引き写されているではないか。強い絆で陰惨なイジメを潜り抜けた亜美と麻弥が、逆らいがたい大人の事情によって離れ離れになる。そんな彼女らの、最後の思い出作りのお芝居に協力したいという沢見の想いは、ウガンダの子供たちの悲劇を許せないと感じるIやYの感覚と、そう隔たってはいない。なにしろこの少女らは、心中まで考えるほどに追い詰められているのだから。
沢見はクリスマスプレゼントとして、少女たちに小鳥を贈る決意をする。娘の千春の誕生日プレゼントに買い与えたのと同じ、白い雌のセキエイインコを。かつて千春はその鳥を「ドリー」と名付けた。世を騒がせたクローン羊と同じ名前。では、この白い雌のセキエイインコは何のコピーなのか。当然「トキ」である。これは『ニッポニア・ニッポン』における「トキ」が少女たちに仮託されたと解釈すべきだ。そして、「トキ」を買い与えられた千春は、沢見のヌードコレクションのモデルであり、やがて母親によって沢見から隔離され、沢見を怖がるようになった。
そう、やはりこの作品の結末を「ロリコンの社会復帰」と、肯定的にみなすことはできない。二人の少女に自分の娘と同じ小鳥を買い与え、私財を投げ打って二人の劇「勿忘草」をプロデュースした沢見が、過去と同じ過ちをふたたび繰り返すのはもはや避けがたいように思われる。写真の中からお芝居の舞台へ、沢見の前に少女は再び現れたのだ。その手にトキを携えて。そして、その結末もIによって暗示されている。成長しても少女時代のトラウマを払拭できなかったIの親友の自殺。大人の欲望により虐げられた子供の末路に、ハッピーエンドはない。
では、この作品が言わんとしていることは何なのか。ロリは死んでも直らない?それも良さげだが、もっと他に何かありそうだ。

この作品の恐るべき点は、誰もが持っている子どもへの愛情と、ロリコンのグロテスクな願望を、そのまま結びつけてしまったところにある。沢見は異常性癖のモンスターでなく、子どもへの好意がちょっと過剰なだけの一般人に過ぎないのではないのか? 後半の沢見の思考や行動から、読者がこう感じたとしても不思議はない。そこから「沢見更正説」を導き出すのは容易だ。しかし、この問いは沢見や世のロリコンたちの擁護にはならない。むしろ、自分をノーマルだと思いこんでいる、我々に向かって鋭く突きつけられた刃なのだ。
果たして、小学6年生の女の子に普通に好意を感じる僕らは、ロリコンなのだろうか。誰もが一度は考え、すぐに打ち消すであろう身近な疑念を、『グランド・フィナーレ』はまざまざと思い起こさせる。二人の少女のために尽力する沢見の微笑ましくも一途な想いが、あの忌まわしい倒錯した性癖と同一線上にあるとしたら……。僕たちは沢見の行動と想いに自分たちが共感できることの意味を、ちっとはマジメに考えてみるべきなのかもしれない。

ともあれ、全国ウン千万人のロリコン予備軍は、自らの代弁者が芥川賞という栄誉ある賞を受けたことについて、素直に喜ぶべきであろう(ついにロリコンの時代が来たんですよ、CCさくら板のみなさん!)。その一員である僕も、ここで高らかに阿部和重氏の芥川賞受賞をお祝いさせてもらうことにする。阿部っちオメーーーーーーーーー!!!

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【書評】綿矢りさのしくみ/小谷野敦 渡部直己 吉本謙次

ai.jpg多分つまんねーだろうなあと思いつつ、小谷野敦のイヤミが読みたいがために購入した一冊。それがこうも面白いとは。特に冒頭の吉本謙次の記事が思いのほか良かった。通常こういった関連本の構成としては、ヌル~く作者や作品の秘密に迫る「謎本」と、エラい先生を読んできて文章書いてもらう「批評」の二通りが考えられる。もちろん小谷野と渡部は後者に該当するが、吉本謙次が選んだのはそのどちらでもない「ルポ」という体裁。つまり、小説家志望の現役早稲田生を捕まえて「ぶっちゃけ綿矢りさってどうよ?」と聞いてしまう、機動力を生かしたライターらしい切り口である。
当然ここで期待するのは、自分に才能があると勘違いしちゃった自意識過剰ちゃん(くん)たちによる、嫉妬と羨望にまみれたアイタタタなコメントである。しかし、この記事に出てくる3人の学生は実に淡々としたものだ。キャッチは過激だが、どいつもこいつも「羨ましいけど凄いことは凄いよね」という感じで一様に綿矢の実力は認めている様子。吉本によれば、ここで取り上げた学生たちの書いた小説も決して悪くないらしく、分かりやすいおバカさんの吊るし上げを期待した僕としては、やや肩透かしをくらった感もある。だが、彼女らが綿矢作品に言及するときの距離感には、やはり微妙な拘泥が見え隠れしていて、それがまたリアルで微笑ましいのだ。ニヤニヤ。実力は一応認めるけど全面降伏はしないよ、っていうこのスタンス(笑)。
続く渡部の文章は純粋な小説技法の分析と評価で、これは「渡部直己」という名前の売れた批評家によるものでなければ一笑に付される類のものだと思う。渡部がダメなのではなくて、方法そのものが批評家の信頼性に強く依存するという意味で。なぜなら、物語作法の基本から外れがちな現代小説を、書き方講座のように読み解くのはナンセンスとも思えるからだ。メチャクチャな構成や幼稚な文体も小説破壊の試みと評価されうる昨今、普遍的な小説の作法なんて誰が信用するものか……。たが、ここでの渡部の分析と評価は納得できる。つまるところ、幼稚だろうか巧みだろうがその効果を見極める批評眼が全てであり、その点で渡部の評価は信頼に値する、という印象を持った(実はこれまで渡部直己はきちんと読んだことはないんでこれくらいしか言えない…)
メインディッシュの小谷野敦。「もてない男」と「美少女作家」は最高の取り合わせだと思ったけど、小谷野いわく綿矢は美少女ではないらしい。なにィ! 冒頭で吉本がアイドル並みと言ってるではないか! 本当はこんなどうでもいい所に反応するのはヤメたいのだが、岡崎京子の『リバースエッジ』にダメ出ししたり、植芝理一の『ディスコミュニケーション』を引っ張り出したり(アンタこんなのまで読んでるのか…)、どうもディーテルを紹介したくなる文章だなコレは。本筋はといえば、にな川はオリチャンのアイコラをハツに見せつけ、ハツの目の前でオリチャンに特攻したことから、にな川はあえてオタクなキャラを顕示することで、ハツとの関係を規定している。その互いが向き合わない超消極的な関係、偶然結びついた交換可能な関係を、従来の相手を選んで恋愛する価値観に対置するものとして評価する、といった感じ。槍玉に挙げられた石川忠司はご愁傷様。
最後の「綿矢りさキーワード小事典」も細かい情報まで集められていて感心。メディア上の綿矢発言の集大成となっており、その粘着ぶりはにな川を思わせる、と最大級の賛辞を送っておこう。総合的に見ても関連本として良い出来で、綿矢ファンだけでなく綿矢ブームウォッチャーにも必携の一冊。ただ、時期的にタイミングを逃した感は否めず、そこがちょっと惜しいところ。個人的には付録に「にな川製アイコラ」が付けば言うことなしだったなあ。顔はオリチャンと綿矢の2バージョンで……(笑)。

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【書評】好き好き大好き超愛してる。/舞城王太郎

ai.jpg今回の芥川賞で最大の注目を集めながらも落選した問題作。村上龍が選考会を多忙との理由で欠席したことを福田和也が怒っていたそうだが、それはこの作品が村上龍の影響下にあることも関係ありそうだ。『69』や『走れタカハシ』でDQN気味の若者口語を使いこなし、『だいじょうぶマイフレンド』でナンセンスで悲しいSFを描いた、その数十年後に現れた後継者。村上龍がこの作品にどのような印象を抱くのか非常に興味があっただけに残念である。
それにしても恐ろしく密度の高い作品である。受賞作『介護入門』がワンアイディアで勝負しているのに対して、あらゆる手法を惜しげもなく投入している。『世界の果てて愛を叫ぶ』や『ノルウェイの森』『うたかたの日々』といった重病ものの純愛小説を基調に、お得意のマンガ、アニメ、SF的な想像力をマジックリアリズム風に溶け込ませ、現実の事件を題材にしつつ最近のテーマであるメタ的な展開も忘れない。データベース的であることを最大限活用したハイブリット・恋愛小説。非文学的な過剰さを文学的な要素で取り囲んで芥川賞用にパッケージングしたとでも言うべきか。しかし選考委員の反応はいまひとつ。評価したのは山田詠美と池澤夏樹のみ。後は高樹のぶ子が消極的評価を示したくらい。これでダメなら舞城は芥川賞とは縁のない作家なのかもしれない。
4つの小説からなるオムニバス形式は、作品同士の繋がりが見えないという声もあったが、むしろテーマが通低していればジャンルは表層に過ぎないことを突きつける。恋人は奇怪な虫に冒され、誘拐犯に殺され、戦闘美少女として神に殺され、「僕」が小説を書く傍ら病室のベットで息を引き取る。そのいずれもが等しく僕らの心を焼き切る。これこそが僕たちの世代の想像力ではないのか。この作品はオシャレでもなければノスタルジックでもないし泣けもしない。しかし、サブカルチャーと凶悪事件の間をすり抜けるように育った僕らにとって、混乱と絶望はこんな形で現れる。田舎町で同級生の女の子を病気で失うような悲劇など、もはやファンタジー小説より遠い絵空事なのだ。
すべては想像力の中に残されている。死んだ彼女から100年先の誕生日まで送られ続ける手紙と共に。高樹のぶ子が唯一評価すると言った柿緒編の最後。柿緒の死の直前の秘密の一日を想像することで、「僕」は柿緒を想い続けられる。その空隙を埋める想像力が智恵子編、佐々木妙子編、ニオモ編に繋がっている。柿緒を失った「僕」が、漂白される記憶に伴い形を変える想像力から生み続ける「空白の一日」のための物語。この失われた恋人のための想像力こそが、小説冒頭の「僕」の「祈り」なのだ。
読み終えてタイトルを再読してみる。『好き好き大好き超愛してる』。この作品の中で、もっともセンチメンタルで秀逸な言葉だ。絶望を目前にしてうわっついたギャル語で、それでも「愛してる」以上の意味を伝えようとする切実さに、石原慎太郎は気付かないのだろうか。「超愛してる。」としか言いようのない、それでも言い尽くせない「悲しみ」を、心ある読者はきらびやかな題字の中に読み取るだろう。

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【漫画評】フルーツバスケット/高屋奈月

furu.jpg「恋愛は付き合うまでが楽しい」とはよく言われることで、主人公とヒロインのときめきラブストーリーが輝きを失わないためには、二人はくっつくことなく微妙な関係を維持しなければならない。いわゆる「ラブコメ」と言われる漫画の一部は、その恋愛不可能性をSF的な設定に盛り込むことで、永久にゴールにたどり着かない恋愛関係を保障してきた。ラムが宇宙人なのも、らんまが女に変身するのも、ひばり君が実は男の子なのも、R・田中一郎がロボットなのもそのためだ。すべて彼や彼女たちの恋愛の成就を妨げ、微妙な関係を永遠に維持するためのギミックである。(このギミックがないと『いちご100%』の真中のように猛烈な非難を読者から浴びることになる笑)
この手法の元祖は萩尾望都の『11人いる!』だろう。この作品のヒロインであるフロルは雌雄同体の宇宙人。成長過程で性差を選択できる種族のため、男か女かが決定されていない猶予期間にある。物語の中でフロルはタダというボーイフレンドを得て、女性へと変化することを決心するのだが、この二人の関係は実に魅力的だ。今はまだ男でも女でもないフロルはいずれ美貌の女性へと変化する、その約束された将来までの間、つまり子供でいる間にだけ許される、恋人でも友達でもない微妙な関係。「性差の未発達な宇宙人」という設定を使って、萩尾はそのいっときのゆめまぼろしのような感情を見事に具現化してみせたのだ。
この恋愛不可能性を設定に盛り込む手法はその後広く一般化する。最近の作品で例に挙げるなら、『美鳥の日々』が右手が女の子になるという大胆な設定を採用してるし、少年チャンピオンの『曲芸家族』では、主人公と二人のヒロインの顔がまったく同じという、避けがたい恋愛不可能性が読者に突きつけられている。
そして、この『フルーツバスケット』の登場人物もまた、干支の動物に変身するという恋愛不可能性を抱えている。これは高橋留美子の『らんま1/2』の変奏であるが、らんまではお湯をかぶること変身するのに対して『フルーツバスケット』では異性に抱きつかれると変身するという、より本質的な設定となっている。なにしろ作中で干支の呪いにかけられた者は、SEXができないことまで遠まわしに言及されているのだ。恐らく作者自身もこの設定の意味するところについては十分自覚しているだろう。(「透」という男の名前の少女と、「由希」という女の名前の少年は、二人の関係が普通の恋愛関係ではありえないことを暗示しているかのようだ)
さて、普通ならこういった設定であれば、動物に変身してしまう登場人物がトラブルメーカーとなって、ドタバタと学園コメディが展開される……はずなのだが、『フルーツバスケット』ではそうはならない。なぜなら、恋愛だけに作用するはずの不可能性が、この作品では親子関係にまで影響を及ぼしているからだ。干支の人間は例え相手が親であっても異性に抱かれると動物に変身してしまう。つまり「干支の呪い」は恋愛だけでなく、親子の愛情まで否定するのだ。これは従来の同種のラブコメが避けてきた問題であり、触れてはならないタブーだったはずだ。SFラブコメが潜在的に抱えるもう一つのグロテスクな側面、そこから紡ぎだされる暗い物語を読者は知ることになる。
先に挙げた恋愛不可能性の先駆者、萩尾望都も『イグアナの娘』で、娘がイグアナに見えるために愛せない母親という、親子間の愛情不可能性の物語を描いている。恋愛不可能性は親子の愛情不可能性と表裏一体であり、ヒロインとの終わりのない恋愛ごっこに興じる主人公は、同様に実の親からも愛されることはないのだ。萩尾の『11人いる!』から『イグアナの娘』への転換を、ラブコメ設定を使いながら「コメディ」ではなく「悲劇」を選び取ることで実践した作品、それが『フルーツバスケット』なのである。
これは少女漫画だからこそ描かれた作品だ。あのラブコメの世界で楽しそうに遊ぶ異形の子供たちが、自分の息子や娘だったら……甘く楽しげな世界を冷ややかに眺めながら働かせるこういった想像力は、いずれ母親になる人間しか持ち得ない。この手法の最大の成功者である高橋留美子も同様の問題に気付いていたはずだが、徹底して男性向けのエンターティーナーであるために、あえて無視していると見るべきだろう(高橋作品の中で最もシリアスな人魚シリーズでも、あくまで親子の愛情は歪むものであって否定されることはない)。
萩尾望都が生み、高橋留美子が育てたSFラブコメの最前衛は、形を変え男の子の妄想から再び少女漫画のもとに奪回された。この『フルーツバスケット』は、男の子たちが奔放に遊ぶラブコメ世界の裏にあるはずの、もう一つの「愛なき世界」なのである。

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【書評】イリヤの空 UFOの夏/秋山瑞人

iriya.jpg何一つ奇抜な設定はない。転校生の女の子、UFO、最終戦争、ESP、宇宙人。80年代のジュブナイル小説を思わせる、使い古された道具立ての数々だが、それはノルタルジーを喚起させる装置として素晴らしい効果を発揮している。夜のプール、誰もいない校舎、日焼けした友達、山積みの宿題、夏休みの終わり……。中学2年の夏、14歳の少年の目の前に広がる世界はあまりに美しかった。
もちろん我々のそれはただの郷愁に過ぎない。当時は嫌なことも辛いことも沢山あったはずだ。しかし、まるで記憶の中の日々が紙面に写し取られたかのように、浅羽少年の楽しそうな日々は流れる。彼の目に世界は眩しすぎてその向こう側にあるものを捉えきれない。そして、伊里野はその向こう側からやってきた女の子だった。ボーイ・ミーツ・ガール。少年は深夜のプールで少女と出逢う。それは彼女にこの美しい世界を見せるため、そして世界を彼女の人質にするための「子犬作戦」の始まりでもあった。
青春に意味なんてない。少なくともその只中にいる当人たちにとっては、ありふれた日常に過ぎない。だが、大人たちは浅羽と伊里野の日々に意味を与えた。そして、その罪深さに苦悩していた。「子犬作戦」の善悪は表裏一体だ。伊里野に世界の美しさを教えることは正しいことなのか。世界の美しさを知れば伊里野は血反吐を吐いてでも戦わずにはいられない。そうと知りながら彼女に世界の美しさを見せることは本当に「正しいこと」なのか。伊里野の青春の意味を知る者は、「子犬作戦」の悪の側面に立たなければならない。椎名はその残酷さに耐えられずに物語の舞台から姿を消した。
そして青春の只中にいるはずの浅羽も、大人たちと同じような苦悩を背負わされる。伊里野との逃避行はいずれ終わりがやってくる。それは逃亡の現実的なビジョンを描けない浅羽自身が一番分かっていたはずだ。それでも榎本が失われると分かっている学校生活を伊里野に与えたように、浅羽も終わると分かってる「夏休み」へ伊里野を連れ出した。浅羽は常に自分の行動が「正しいこと」であると自問自答する。いずれ必ず軍に補足されるとしても、この逃避行は正しいと。
ここで浅羽は榎本の行動を反復している。榎本-伊里野-浅羽の関係はそのまま浅羽-伊里野-子猫にすり替わり、二人の逃避行は「子犬作戦」のミニチュア版となる。浅羽は榎本が伊里野に「子犬」として浅羽を与えたように、彼女に子猫を与える。疲弊しながら世界を延命させようと奔走する榎本と、ボロボロになりながらも軍から逃げ続ける浅羽。世界の情勢は浅羽と伊里野の状況にそのまま反映されている。つまり「夏休みふたたび・後編」の絶望的な逃避行は、そのまま榎本が見ていた破滅を迎えようとする世界の姿でもあるのだ。
しかし、榎本も浅羽も世界の美しさを信じている。「子犬」や「子猫」を伊里野に与える、そんなちっぽけなことが何物にも代え難い意味を持つと。だから浅羽は校長を連れ出すために危険に身をさらす。それが命をかけるに値する「正しいこと」であると信じるがために。そして榎本もまた二人のの逃避行と世界の命運を天秤にかける。兵士が思い出の日々のために命を投げ出せるなら、兵士の命と思い出は等価だ。ならば世界の命運を背負った伊里野の命であっても、それは彼女の思い出と等価に違いない。榎本の中で、浅羽と伊里野の逃避行の日々は全世界の運命と釣り合ったのだ。だから榎本は浅羽と伊里野を本気で追おうとはしなかった。少年と少女に遅れてやってきた「夏休み」は、全世界を滅ぼすだけの価値があった。少なくとも榎本にとっては。
14歳の夏の終わり、世界は終末を迎えようとしていた。全ては不透明で、「敵」が何であるかすら見えない世界で、しかし茫漠とした絶望感だけが広がってゆく。逃避行の終着駅、日の暮れた海岸線、誰もいない砂浜、打ち捨てられた夏の化石たち。そう、これは1999年8月を生き延びてしまった我々があの夏に見るはずだった、甘く切ない破滅の夢なのである。
戦争は終わった。恐怖の大王は降りてこなかった。何事もなかったかのように日常が始まり、ひと夏の体験は平凡な日々に塗り込められてゆく。青春のからくりを知ってしまった浅羽に、二度と「夏休み」はやってこないだろう。人生は相変わらず続いていき、無邪気で愚かで輝かしい日々は、淡い思い出の一つとして記憶の底に沈殿する。だが、あの日見た破滅の夢は決して消え去ることはない。それどころか、ときおり形を変えて現れては我々の胸をかきむしるのだ。まるでこの物語のように。

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【書評】阿修羅ガール/舞城王太郎

girl.jpg僕たちは、簡単に子供を殺戮する狂人たちの内面を知ることができるだろうか。近所の子供の首を切り取ったり小学校で子供を狩ったりする、そんな奴らの心は、果たして僕らの心と同じ形をしているのだろうか。
舞城王太郎の『阿修羅ガール』は女子高生アイコが異世界を巡る物語だ。「神」だの「天使」だのが跋扈する、「2ちゃんねる」をモデルにしたと思われるインターネットの巨大掲示板「天の声」。ここを入り口にアイコの虚構世界への旅が始まる。仮想世界の「祭り」が現実へと波及し、掲示板の厨房たちが街で暴れ出すところから(これを作中では「アルマゲドン」と呼んでいる)、現実と虚構の境界はあやふやになりだし、モト冬樹やグッチ祐三などのテレビの世界の住人、さらにスティーブ・マーティンやジョン・キャンディら映画スターといった「半虚構」の人物たちが現れる。彼らに連れられ辿り着いたのが三途の川。あわやという場面でアイコはあこがれのクラスメイト、陽二に救われる。(このアイコの虚構巡りは押井守の、「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」を意識しているらしく、アイコが三途の川に身を投げるときにのセリフが「責任とってよー!」だったり、「天の声」の住人が監禁した女子中学生を「ラムちゃん」と呼んでいたりする)
場違いな告白をしたあげく陽二にふられ、ふたたび三途の川に身を投げるアイコ。次に彼女がたどり着いたのは、時代も場所も不明の「ハデブラ村」。この「森」編では、物語の「語り手」だったアイコの自意識は消滅し、彼女の空想上の友達「シャスティン」が主人公となる完全な虚構世界だ。ここでさらに森の「怪物」に飲み込まれ、アイコは連続児童殺害事件の犯人「ぐるぐる魔人」の内面へと到達する。異世界巡りの終着点は、スタート地点と同じ現実世界でありながら、普通の女子高生アイコの世界からは最も遠い人殺しの目から見た世界だった。
この殺人犯と同じ視座を読者に与える手法はミステリではおなじみだ。例えば金田一君が謎を解いた事件の犯人が、突然悲劇的な過去を語りだす例のパターン。読者が「こんな過去があったのなら連続殺人もしちゃうわな」と納得することで、事件は円満な解決を迎える。そこには「過去」という、殺人犯と探偵・読者を結びつける「物語」が機能している。しかし、もし犯人にそんな過去なんて無かったら? とても理解しえない、理由とも言えないような理由で人を殺したのだったら? アイコがたどりついたのは、そんな狂った殺人犯の目から見た現実世界だった。この意味で『阿修羅ガール』は舞城王太郎がこれまで手掛けてきた実験的ミステリの延長線上に位置する作品だ。通常、探偵(読者)はトリックを解き、事件の動機(物語)を聞き出すことによって犯人を理解し、物語的な意味で事件を解決する。この作品ではそこからトリックが抜け落ちているのだ。
ここで普通の女子高生であるアイコ(探偵)と倒錯者「ぐるぐる魔人」(犯人)の断絶を埋めているのは、ミステリ風の悲劇の「物語」ではない。不条理な恐怖が支配するハデブラ村のおとぎ話である。戯れに傷つけあう子どもたち(「アルマゲドン」)、帰ってこない兄、言葉を支配する怪物(「天の声」)。現実世界の寓話である「森」編では、現実では見えなかった歪みが形を変えて顕在化する。それは子供たちの手足を引き裂く「怪物」が、そのままバラバラ殺人の「ぐるぐる魔人」と繋がっていることからも明らかだ。
舞城は『暗闇の中で子供』の中で奈津川三郎に、「ある種の真実は嘘でしか語れない」と語らせている。現実は虚構でしか本当らしく語ることはできない。それは『阿修羅ガール』においてアイコの世界の「真実」が「森」編にあることを示している。そして舞城王太郎もまた、我々の生きる世界の「真実」を、『阿修羅ガール』という「虚構」で語ろうとしているのだ。
今日において一般人と一部の殺人者との溝を埋めているのは、特別な過去や特殊な体験といったストーリーではない。彼らは我々と同じ世界を見、同じ世界に生きながらそのために人を殺す。そこにあるのは、ただ気づいたか気づかないかの違いでしかない。無職ヒキコモリのペドフィリア「ぐるぐる魔人」に見えてしまったもの、世界の歪みや狂気としか言いようのないものは、虚構の世界で初めて具体的な形を取る。その「怪物」を「ぐるぐる魔人」は現実世界に再現しようとして、三つ子を殺し阿修羅像を作った。
この「怪物」は、我々の世界では「麻原彰晃」や「バモイドオキ神」といった形で現れる。そして「地下鉄サリン事件」や「神戸児童殺傷事件」の犯人たちと我々の間にある断絶を埋める「物語」は、オウム信者や酒鬼薔薇聖斗が耽溺し、我々の周囲に偏在する「サブカルチャー」に他ならない。サブカルチャー作家・村上春樹はそれに耐えられずに「アンダーグラウンド」という禊を必要とした。しかし舞城はそのことに自覚的でありながら、積極的にサブカルチャー作家であることを引き受けようとする。それこそ舞城王太郎が、あの90年代を乗り越えてやってきた新世代作家であることの証なのである。

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「坪内vs仲俣」に見るウェブ論壇の可能性

文芸評論家・仲俣暁夫氏の「陸這記」 は、ウェブにある無料の文章としては抜群に面白くて愛読していたのだけれども、先日発売されたばかりの文芸雑誌「en-taxi」の巻頭コラムで、坪内祐三がこれに絡んでいる。
詳細は陸這記の反論 を読めば分かるが、坪内祐三の批判は二点。一つ目は、仲俣氏が陸這記でやった「en-taxi」匿名コラムの書き手予想が外れていること(仲俣氏が「芸がない」と批判した書き手が見え見えのコラムは、あえてそう書いたらしい)、二つ目は陸這記にあった「宮台、大塚、福田ら80~90年代批評家のオタク的感受性は彼らが私立プチブル層に育ったため」という記述への反論だ。確かに大塚らは著書の中で裕福な家庭に育っていないことを明記しているので、後者に関しては仲俣氏としても批判されるべき部分は少なからずある。しかし、仲俣氏はこの文章を「家庭を詮索するような文章は失礼」という判断から公開後すぐに削除してしまっているため、既にない文章の記憶を頼りにした、ひどく中途半端な批判となってしまっている。
まあ、どうしょうもないっちゃあどうしょうもない喧嘩なんだけど、この一連の批判合戦は、ウェブ日記と文芸誌の間を往復したという点で意味があると思う(文芸誌からウェブにある非匿名の文章に具体的に言及したのはこれが初めてではないかな?)。そしてこの新旧のメディアを比較したとき、文芸誌の方が圧倒的に不利なことは誰の目にも明らかだ。
まず、ウェブで公開された文章は後からいくらでも修正が利くので、明らかなミスから言質を取られる可能性が低くなる。今回の件でも坪内が仲俣氏の日記の文章を正確に引用できないのは、批判をする上で大きなマイナスだ。さらに、仲俣氏は陸這記から何度でも一方的に坪内に反論することができる。しかし坪内には次号の「en-taxi」が出るまで、その機会は与えられない。ウェブと紙媒体の間で論争を展開する場合、両者の時間の流れがあまりに違いすぎるのだ。
もちろん文芸評論家がウェブに活動の中心を置くのはリスキーでもある。発言の一字一句がネット住人たちの鋭いツッコミに始終晒されているのは大きなプレッシャーだろうし、その対応に失敗すれば権威が失墜するかもしれない。しかし、そこから雑誌媒体の文章を批判するとき、ウェブの身軽さは大きな強みとなる。ウェブという強力なメディアに乗った批評家の言葉を止めるためには、論争相手も同じ土俵に降りてきて戦うしかないのだ。
このようにウェブと従来メディア間の機能的な格差が露になることで、ウェブというメディアのアドバンテージは強烈に意識されるようになる。同業者より強いメディアを抑えることは、言葉で戦う批評家にとってはかなり有効な戦略だ。これまでは文芸誌がその権威により「強いメディア」として振舞ってきたが、ウェブはそれを無力化する「文芸誌キラー」となれる可能性を持った媒体なのだ。
幸い陸這記のコメント欄は常に開かれており、その点でウェブは誰に対してもフェアだ。そしてウェブは小説や論文を発表する場より、論争や口喧嘩などのゴシップの舞台になるほうがずっと向いていると思う。ウェブで活動する批評家が増えることで、論争の場が文芸誌からウェブに移り、文芸誌はウェブでの批評合戦を記録し報告する媒体となる。そんな従来とは逆転した新しいネット文壇・ネット論壇の可能性を、僕はこのちいさなイザコザから妄想してしてしまう。

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【書評】蹴りたい背中/綿矢りさ

keri.jpg学校に馴染めない繊細な主人公ハツと、人気モデル・オリチャンの熱狂的ファンである同級生「にな川」の交流を瑞々しい感性で描いた、第130回芥川賞受賞作品。この作品を読み解く上で最も重要なのは、にな川の存在をどう捉えるか、である。彼を「アイドルオタク」としてしまうと、「蹴りたい背中」は、ただの青春小説としてしか評価できなくなる。
にな川はアイドルオタクではない。彼のオリチャンへの執着は、もっと切実で盲目的な、「信仰」とでも呼ぶべきものだ。にな川は部屋にオリチャンのポスターを貼ったりしない。にな川は他のオリチャンファンと喜びを共有しない。にな川はオリチャン以外のアイドルには何の興味もない。にな川はキスしてきた目の前の女の子にすら興味がない。あまりに特異な彼のあり方は、アイドルオタクどころか、普通の高校生からすら大きくかけ離れている。
ほとんどの高校生にとって世界の大部分を占める学校生活。その人間関係からドロップアウトした主人公ハツは、学校という世界のありようを外側から眺める。当たり前のように友達と談笑する社交に長けた連中、あだ名で呼ばれ軽んじられる最下層グループ、教師まで丸め込んで表面的な仲良しを演じる陸上部の部員たち。誰もが居場所を見つけ、それぞれの人間関係に溶け込んでいる。ハツ自身とにな川を除いては。そしてにな川の孤立は、ハツの孤立とは決定的に異なる。にな川はハツのように教室で孤立しているというだけではない。彼は親を含めたすべての人間から、あらゆる面で孤立している。恐らく誰一人、にな川と会話を楽しめる人間などいないだろう。にな川はただ一人、オリチャンを神とした信仰の世界に生きているからだ。
ハツが教室で孤立し悶々としている間も、まるで孤独を苦にせず飄々としているにな川。ハツがにな川に魅かれるのは、信仰を持つ者に対する持たざる者の憧憬だ。クラスメイトなんてどうでもいい素振りをみせながら、内心孤独を持て余しているハツは、本心からクラスメイトに興味のないにな川に憧れている。しかし、その信仰の根源である、オリチャンへの異常なまでの執着をハツは理解できない。本物のオリチャンと実際に会話を交わしているハツにとって、オリチャンはただの憧れの女性に過ぎないが、身の回りのものを集め、仮構のオリチャンを作り上げようとしているにな川にとって、彼女は世界の中心であり信仰の対象だ。ハツがにな川の背中を蹴りたくなるのは、オタクにムカついたからでも、女として軽んじられたからでもない。それは自分にはない信仰を持つ者への、嫉妬と苛立ちなのだ。しかし、彼女が蹴ることができるのは背中だけ。決してにな川の正面に回ることはできない。コンサートの出待ちで、ロープの向こうにいる神へと手を伸ばしたにな川は、「オリチャンへ近づいたそのときが、一番オリチャンを遠くに感じた」と絶望する。そして信仰を持たざる者もまた、神から目をそらさずにそう語る信者の背中を遠くに眺め、蹴りつけることしかできないのだ。
愛想笑いを取り繕い茶番劇に参加するか、伴走者のいない狂気にも似た信仰の道を一人歩くか。世界に馴染めない人間の取る道は二つしかない。全国の中学・高校で、同世代の価値観に背を向けたマイノリティたちは後者の道、「超越者」を目指す。わたしはあなたたちとは違うところを見ているよ、あなたたちとはレベルが違うよ、と。しかし、本当の超越者の道行きは、決して神に辿りつくことのない、それどころか他人とは何一つわかちあえず、ベランダで一人背を向け絶望を抱え込むような、そんな悲しい生き方でしかないのである。

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【書評】悪の読書術/福田和也

aku.jpg「作家の値打ち」で名を馳せた文芸評論家、福田和也の「悪の~」シリーズ第3弾。この「悪の読書術」は、スノップぶるための読書のラインナップをオススメする内容で、「福田流」の価値観に基づく人生読本という意味では全2作のスタイルを踏襲している。しかし本書が決定的に異なるのは、福田が作り上げようとしている「フェイクとしての文壇」と、東浩紀の提唱した「オタクの動物化」を視野に入れた戦略が背景にあるところだ。福田は「作家の値打ち」で現役作家を点数付けして腑分けを行った。その優劣という評価軸に「スノビズム」という新たなベクトルを導入しようとしたのが「悪の読書術」なのだ。作品として優れていることと、作品としての格が高いことは違う。福田はこの著作で、作品評価には「格調」という価値観があることを示し、自己主張の道具としての文学作品の側面を認めている。そして福田がスノビズムを肯定するのは、東浩紀の「動物化するポストモダン」が示した現状への一つの回答に他ならない。オタクの現状を解説したこの本で東は、90年代以降のオタクからスノビズムが失われつつあることを指摘し、これを「動物化」と呼んでいる。この動きはオタク業界の外にも確実に波及し、もはや文学に特別の価値を見出す者は少ない。漫画、アニメ、映画、小説、ゲーム、全てが並列にデータベース化され、かつてあったメインカルチャーの権威は失われてしまった。そんなご時世に、ほとんど崩れ去っているメインカルチャーとサブカルチャーの垣根を、再び築き上げようと目論んだのが本書なのである。確かにスノビズムはアホらしい。特にスノビズムの極みであるニューアカブームを体験した世代は、ことさらそれを強調したがる。しかし、スノビズムが文学を文学たらしめていた一要素であったことも、やはり否定できない事実なのだ。

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【書評】ナップスター狂想曲/ジョセフ・メン

cover1999年、米国のアングラIRC「ウーウー」に出入りしていた大学生ハッカー、ショーン・ファニングは、世界を変えるとびきりのアイディアを持っていた。彼はパーカーやリッターら同世代のハッカー仲間と共に、全く新しいソフトの開発に取り組む。ショーンの少年時代のあだ名から「ナップスター」と名づけられたそのソフトは、わずか1年でネットの価値観をガラリと変えた。誰もがタダで音楽ファイルを手に入れられる無法空間の誕生。しかしそれは、音楽業界との熾烈な闘争の始まりだった…。
世界初のファイル交換ソフト「ナップスター」の誕生から滅亡までを綿密な取材を元に描いたドキュメンタリー。ここで描かれたナップスター崩壊の直接的な原因を挙げるなら、入り組みすぎた関連企業の思惑に加え、ショーンのおじのジョン・ファニングが発揮した我欲と無能ぶりと言える。しかしそれはナップスターの寿命をほんの少し縮めた瑣末に過ぎない。本質的な問題は、ナップスターがただの違法ソフトではなく、ある種の思想の象徴となってしまったことだ。「誰もが自由に(無料で)音楽を聴ける権利を」。ナップスター社が自らを正当化し著作権裁判を優位に進めるためのスローガンは、ユーザーだけでなくショーンらナップスターの中核メンバーをも虜にした。ナップスターの可能性に目がくらんだ彼らは、ナップスターが音楽業界に取り込まれることを良しとせず、有料サービスへと移行して生き延びる道を選べなかったのだ。最終的ににナップスターを買い取ったロキシオ社のCEO、クリス・ゴロクが語ったように、この思想は音楽業界とは絶対に分かち合えないものだ。例え裁判の引き伸ばしに成功したところで、この思想の体現者となってしまったナップスターから有効なビジネスモデルが生まれることはなかっただろう。果たしてナップスターがもたらした世界は、来たるべき未来なのか、禁断の楽園なのか。6年経った今も答えは出ていない。

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