【映画評】花とアリス

Hana世の中の少女たちはいったい何を楽しげに話しているのだろうか。それは男である僕にはおよびもつかない未知の世界である。放課後の教室でイスを寄せて。また駅やバス停で小さな歓声を上げながら。両親の目を気につつ長電話で。休日に親友を招いてポテチをつまみながら。少女たちはひとときも休むことなくおしゃべりに興じている。仲のよい女の子が2人以上集まると、まるでそこだけ別の空間が生まれたかのようである。
普段の彼女たちの言動から察するに、それはきっとつまらない、ほんのささいなことであるに違いない。しかし僕には、彼女たちの間でささやかれる会話が、まるで世界の重大な秘密であるかのように思えていた時期がある。目の前の出来事はみんな誰かによって作られた嘘っぱちで、その秘密を知る女の子だけが、密かにこの世の真実を語りあっているのではないか――。
例えば、同級生の女子がひそひそと楽しげに談笑している場面に出くわしたとする。すると、彼女たちは急に話をやめてこちらを見、何事もなかったように声をかけてくるのである。さっきまでの会話を聞き出そうとしても、「なんでもないよ」と笑って絶対に教えようとはしない。
女の子はこの厳格な秘密主義を、幼少の頃から誰に教わるでもなく身につけていて、何も考えずに屋外を走り回っている男子の陰で、密かに別の世界を作り上げている。それは僕にとっていまだに不可解な、この世の秘密であることに変わりはない。

『花とアリス』はこのような秘密についての物語である。作品は冒頭、ハナ(鈴木杏)とアリス(蒼井優)のふたりの会話だけで進行していく。本当にたわいのない、それでいて魅力的な日常のおしゃべりの数々。やがてハナは先輩(郭智博)に恋をする。そして先輩に想いを寄せるあまり一計を案ずるのだ。先輩は記憶喪失で、自分(ハナ)と付き合っていたことを完全に忘れてしまっているのだと。ハナとアリスは先輩に嘘の記憶を教え込むことで、彼女たちと恋人同士であったという「偽りの世界」に先輩を誘い込む。まるで主体性のない先輩は、半信半疑ながらもふたりとデートを繰り返すようになる。ここのところは流石に現実味に欠けるが、しかし、少女たちの作った虚構の世界へと迷い込み、言われるがままにフラフラと彷徨する情けない先輩の姿は、僕にはむしろ懐かしさすら感じさせる。世界の秘密は少女たちのヒソヒソ話の中にあって、それを知らない僕は不安そうにあたりを見まわすばかり。嘘がバレしそうになるたびに、こそこそと口裏あわせをするハナとアリスは、まさに当時の僕が妄想していたとおり、この世界の隠された真実について語りあっている。

やがて「偽りの世界」は破綻し、ふたりはそれぞれ別の道を歩みだす。ハナは嫌われることを覚悟で先輩に全てを告白するが、アリスから先に真実を聞いていた先輩は、ハナを嫌うどころかあっさりをそれを受け入れるのだった。これはいわゆる「嘘から出たマコト」であるが、その一方でアリスはさらに大きな「嘘」に直面していた。先輩にあれほど巧妙に嘘をついていたアリスが、芸能界という「嘘の世界」にまったくついていけない。確かにふたりは小さな嘘で先輩を翻弄していたが、その外側には「社会」という、大人たちの作った巨大な嘘の世界が立ちはだかっていた。俳優オーディションで他の役者の演技に圧倒されるアリス。面接でも適当な志望動機すら言うことができない。嘘のプロフェッショナルたちの前で、彼女はあまりに無力だった。
そんなアリスが、カメラマンの前で初めて自己を主張できたのがバレエであったことには意味がある。この作品のバレエの練習シーンは、ほとんどが少女たちの賑やかなおしゃべりのシーンでもあるからだ。小鳥のさえずりのような彼女たちの談笑は、やがて、あの白眉ともいえる白光の下の可憐なダンスへと繋がっていたのである。こうしてアリスはモデルとして、大人の世界への第一歩を踏み出すのであった。

このような作品に出会うと、僕は自身の幼い頃の直感がそれほど間違っていなかったことを確信する。女の子のおしゃべりには、それがいかにたわいのないことのように思えても、やはり世界の秘密が宿っていたのである。その証拠に、アリスはいつの間にか虚飾に満ちた世界に立ち向かえる術を身につけていたではないか。ハナとアリスの秘密のおしゃべりが作り上げた、本当は存在しない恋愛の記憶。それはきっと世界中の女の子たちが交わす膨大で無意味な会話の中にもあって、少女たちはそれを栄養にしながら、短い時間で大人になっていくに違いないのだ。

だから僕は駅で、街で、電車の中で、女の子の賑やかなおしゃべりに聞き耳を立てる。そこに隠された世界の秘密、少女を大人に変える魔法の言葉を探るために。もう先輩のように、彼女たちの世界に迷いこめるような歳でもないのだけれど……。

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【映画評】ハウルの動く城

Hauいまさらではあるが、やっと観ることができたので。結論から言うと、非常に面白かった。『千と千尋の神隠し』よりもずっといい。欲望のままに美少女を描くのではなく、家族の問題にスポットを当てているのが良かった。
この作品を一言で言えば、「ハウルの動く城」に住む家族(ソフィーやマイケル、荒野の魔女)を、家長であるハウルが守ろうとする物語だ。ハウルは少年時代に地上に落ちた流れ星を飲み込み、このとき現れた火の悪魔カルシファーが、「動く城」の動力源となっている。なんともファンタジックな設定だが、しかし、僕を含めた世の男性たちはみな、ハウルと同じ年頃に「流れ星」を飲み込んでいるはずだ。そのとき、僕たちは「男性性」という強力な(ときに凶暴な)「呪い」をこの身に受けた。「動く城」の家族たちを守るカルシファーと、戦場を駆ける禍々しい姿のハウルはその象徴、僕たちが弱々しい幼年期の心と引き換えに獲得した、「男としての力」そのものである。
このように解釈するならば、この作品はハウルが「呪い」と表現される歪んだ男性性を破棄し、新しい家族関係を構築するまでの物語と理解できるはずだ。あのガラクタが積み重ねられた奇怪な「動く城」はハウルの、ひいては宮崎駿の内面であり、彼が初めてさらけ出した「醜さ」でもある。僕はこの自省を高く評価したい。ここで描かれた自画像のおぞましさは、「飛べない豚」ポルコ・ロッソに込められた皮肉より、はるかに痛烈だ。宮崎は自らの欲望のグロテスクさを自覚している。いかに「男としての力」に優れようと、ハウル(宮崎)はあのような醜い「家」しか作ることができない。しかし、ソフィーはその中をきれいさっぱり掃除するのみならず、ついには城全体を瓦解させてしまった。
はっきり言ってこのあたりは物語の筋立てとしては滅茶苦茶である。ストーリーだけ追えば、ソフィーがカルシファーを持ち出して「動く城」を瓦解させ、髪を捧げてハウルを追おうとするが、今度は水をかけてしまって台無しという流れ。自爆もいいところ。何がしたかったのかサッパリ分からない。
しかし、城の引っ越しをしたときを思い出してほしい。ハウルはソフィーのために新しい部屋を用意し、はしゃいでいたが、ソフィーはこう呟く。「そうね、掃除婦にぴったりの部屋ね」。そう、「掃除婦」なのだ。「家族」ではない。だからソフィーは再び「引っ越し」などと称してカルシファーを連れ出し、「動く城」を崩壊させなければならなかった。あの男性原理で作られたおぞましい城は、一旦破壊されなければ「家族」にはなれない、部屋を掃除したり、髪の色を戻しただけでは、ハウルは「呪い」から開放されないのだ。
最後、「ハウルの動く城」は床板一枚だけとなってしまうが、もはや「城」とは呼べないようなそんな場所に、ハウルとソフィーは帰ってくる。この作品が最後まで「家」の物語であったことの証拠であろう。力を失ったカルシファー、去勢された「少年の心臓」がハウルに戻されることで、ハウルとソフィーは新たな関係を取り結ぶ。それは「魔法使いとナンパされた少女」という関係でも、「魔法使いとその家の掃除婦」という関係でもない、あるべき理想の家族としての、夫婦の関係である。
この作品には、「男性」を構成しているもの全て、あの奇怪な城や、燃えたぎる炎や、格好つけるための金髪や、ベタベタした粘液や、おまじないだらけの寝室や、化け物のような素顔、こういった「男」の中に詰まっているありとあらゆるものが、一人の少女・老婆によって解体される様が描かれている。宮崎作品といえば、ロリコン的な部分であーだこーだと言われがちであるが、少なくとも「ハウル」は「美少女を描いていれば楽しい」という次元からは隔絶した、非常に内省的な作品であると言える。欲望の世界で遊ぶことをやめ、初めて自らの「男性性」に向き合おうとした宮崎作品。物語レベルでの破綻から「傑作」と呼ぶのははばかられるにしても、それなりに思い入れを持つに足る作品だと思うのだが、いかがだろう。

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【映画評】イノセンス ※ネタバレあり

鏡に映った顔が歪んでいるなら、それは鏡が歪んでいるのではなく、顔が歪んでいる……物語の冒頭、バトーとトグサの会話に出てくる格言は、この物語における人間と人形を関係を暗示している。愛玩用アンドロイドが人を殺し「助けて」と呟いて自壊する事件から物語は始まる。アクションと超美麗な3Dに興味が集中しがちだが、最も注目すべきなのは押井がハラウェイとキムに語らせた人形美学だろう。子供の人形遊びは子育ての練習ではなく、むしろ子育てが人形遊びの快感の再現だと語る未婚のアンドロイド技師ハラウェイ。そして、人が動物やアンドロイドを愛でるのは、両者が完全なる無意識の存在だからであるとし、自らも意識のない人形になろうとする男キム。延々と続く哲学的会話には食傷するが、この考え方はイノセンスを理解する上で欠かせない重要なポイントだ。無意識ゆえに人はアンドロイドに魅せられる。意識を持たない空ろな人型、魂を持たない「イノセンス」な存在。しかしロクスソルス社はこのイノセンスを汚した。バトーが船の中心部で見たのものは、大量のゴーストダビング装置。ロクスソルス社は、人身売買で買われた少女たちの魂をコピーしアンドロイドに吹き込むことで、リアルなセクサロイド(性欲処理用のアンドロイド)を製造していたのだ。だから、少女たちは魂をコピーされ人格を失う前に技師と結託し、暴走するようアンドロイドに細工した。自分たちが救出される希望を託して。
ここで原作と大きく異なるのが対するバトーの台詞だ。原作ではバトーが「犠牲者が出るとは考えなかったのか」と少女たちを叱責してエピソードが終わる。しかし映画ではこの台詞が「アンドロイドの気持ちを考えなかったのか」となっている。偽の魂を吹き込まれることでイノセンスを汚され、「助けて」と呟きながら自壊したアンドロイドへの同情。少女は「魂を失い人形のようになりたくなかった」と泣き崩れるが、バトーは「人形だって人間になんかなりたくなかっただろうよ」と呟く。歪んだ性欲のはけ口として少女の魂が封じられた愛玩用の人形たち。狂っているのは人形ではなく、人間の側だったというわけだ。
そして、もう一つ注目すべきなのが草薙素子の存在だ。前作で人形使いと同化しネットワークの神となった彼女は、バトーと興味深い会話を交わしている。バトーに今幸せかどうかを尋ねられた素子は「懐かしい概念ね」と取り合わない。これは荒巻の「人は自分が思っているほど不幸でも幸せでもない」という台詞と呼応している。人工知能と融合した彼女もまた魂を持たない一つのシステムなのだ。ゆえに映画に登場する無意識存在は人形・犬、子供・神の4つだ。人は人形を愛で、犬と戯れ、子供を育て、神を崇める。この意識をもたない存在に執着する人間のサガを象徴しているのがラストシーン、犬を抱くバトー、人形を抱くトグサの娘、その娘を抱くトグサという三者三様のあり方なのである。
原作のエピソードと押井美学を共存させるという離れ業をやってのけた今作。物語はけれんみに欠け、映像も前作ほどのインパクトはないが、多用される引用と哲学的考察、趣味丸出しのメカ・都市・犬と、どこを取っても押井らしさに溢れている。原作の別エピソードの台詞を組み込んだり、繰り返される虚構(ビューティフルドリーマー)や、暴走するロボット軍団(パトレイバー1)といった過去作の再利用ネタもファンにはうれしいところ。また脚本は攻殻機動隊1巻の6話「ROBOT RONDO」をベースにしているため、士郎ファンは話の流れにはすんなりついていけるはず。特筆すべきはオリジナル脚本ではないのにこの押井色の濃さ。原作を生かしながら全く異なる印象に物語を仕上げる手腕はさすが。アレンジャーとして押井は超一流であることを再確認させられる作品だ。
※筆者注:一度観ただけなので細部のセリフはかなり適当です。

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