コマンドの耐えられない軽さ

最近発売されたファミコンミニが売り上げを伸ばしている。再販されたソフトのラインナップが懐かしくて、自宅の押入れに突っ込んであったニューファミコンを取り出し、数年前に中古屋で買いあさった『スーパーマリオブラザーズ』や『スペランカー』、『ボンバーマン』で遊んでみた。そこで気づいたのは、最近のゲームと比べた「ボタンの重さ」の違いであった。
これはファミコンのコントローラーのボタンのタッチが軽いとか重いとかそういう話ではない。テレビ画面の向こう側にいる自分の分身であるマリオ。コントローラーのボタンを押すとマリオはジャンプしたりダッシュしたり、ファイアーボールを投げる。それは「ボタンを押す」という、人間の動作の中でも極めて容易な行動に対応するキャラクターの動きとしてはシンプルだ。いや、ボタン一つで走ったり飛んだりという複雑な運動をするのだから本当はシンプルではないのだが、プレイヤーの操作がゲーム世界にもたらす影響としては許容範囲だったのではないだろうか。だからこそ僕らは画面の中のキャラクターと一体化できた。あの頃画面に釘付けになり夢中でボタンを叩いていた少年たちは、ボタンを押すだけで画面を高速で駆け回るマリオのように、現実世界を駆けたり飛んだりしたくてたまらなかったのだ。
さて、最近のゲームを遊んでいないので例えが古くて恐縮だが、『ファイナルファンタジーⅧ』をこれと比較してみたい。このゲームはRPGにも関わらず画面のバーに合わせてボタンを押したり、コマンドを入力することで攻撃力を倍増させることができる。そして同シリーズでは初めて、人間と同じ頭身のキャラクターを採用している作品でもある。僕は発売日にこのゲームを購入した口だが、プレイして非常に違和感を感じた。その違和感は当時うまく言葉にできなかったが、最後まで拭い去ることはできなかった。
今にして思えば、その違和感の正体は「ボタンの重さ」だった。ボタンを押す、というシンプルな動作に対して反映されるゲーム世界の出来事が、あまりに過剰すぎたのだ。ボタンをタイミング良く押すだけで画面内のスコールは巨大なモンスターを乱打し、ゼルはその巨躯を投げ飛ばす。手元の作業と画面内で起こる出来事のあまりのギャップは、当時の僕を戸惑わせた。
これはFFⅦまでは感じることのない感覚だった。Ⅶにはコマンド入力がなく、プレイヤーは行動を選択するだけに留まる。これはボンバーマンやスペランカーで爆弾を設置する作業程度の意味合いしかない。例え巨大な爆風が多くのブロックを吹き飛ばそうとも、ボンバーマンの行動は「爆弾を置く」というただそれだけだ。それなら「ボタンを押す」という行動と十分に見合うだけの「軽さ」である。しかしⅧのコマンド入力はいやおうなしにプレイヤーとキャラクターの行動を同一化させる。ボタンをタイミング良く押すだけで自分の分身が超人的な動きを繰り広げる。しかも頭身が人間と同じでデフォルメが無いぶんだけ、その違和感はくっきりと現れる。後期のFFシリーズは演出過剰で操作する機会が少なく、眺めるだけのゲームという批判もよく聞かれる。またドラクエと異なり主人公に独立した人格を与えているため、プレーヤーは感情移入こそすれキャラクターとの一体感にはどうしても欠ける。おそらくFFⅧでのコマンド導入の裏にはそういった声があったのだろう。しかし、元々一体感のないゲームにむりやり一体感を出させるコマンド入力を導入したことで、FFⅧはなんだか奇妙な感覚をプレーヤーに喚起させることになってしまっている。
この「ボタンの重さ」の問題を最も意識してきたのは格闘ゲームだろう。格闘ゲームではボタンを押すだけでは、ただのパンチ、キックしか出せない。波動拳を出すには複雑なコマンド入力、さらに超必殺技を繰り出すには難度の高い入力が要求される。これは格闘ゲームというジャンルを確立した『ストリートファイター2』から『バーチャファイター』に至るまで共通のルールだ。ここには複雑な入力であるほど攻撃は威力の高いものになるという「ボタンの重さ」の対応があり、素人目からみれば、アキラスペシャルの複雑なコマンド入力は、実際にその技を繰り出すのと同じくらい難しいようにすら思える。非現実的なスト2の後にリアル志向のバーチャが人気を得たのは、スト2の進化により大きくなりつつあった操作とキャラの動きの間の乖離を、再び接近させたいというプレイヤー達の無意識的な願望に応えるゲームだったからかもしれない。
極論を言ってしまえば、必殺技を出すために複雑なコマンドを入力する必要は全く無い。しかし、ボタンを一つ押せば波動拳が飛び出す格闘ゲームは、対戦としてつまらなくなる以前に、ゲームをプレーする本質的な喜び、自分の肉体が拡張されたかのような感覚を味わう上での魅力に欠ける。僕らはボタンを押すように鋭いパンチを出したいとは思うが、ボタンを押すだけで波動拳が飛んでいくようでは白けてしまうのだ。
一時期さかんに言われたゲームを批判する言説の中に、「人の痛みが分からなくなる」というものがあった。しかしゲームは本質的に、画面の中の他人であるキャラクターと自分を同一化させる遊びだ。僕らはマリオが奈落の底に落ちた瞬間は身を縮め、ベギラマを食らったときには顔を歪めていたはずだ。コントローラーを持たない第三者からは無感情に殺戮を繰り返しているように見えたとしても、子供たちはマリオや勇者になりきってその感情を味わっていた。人の痛みが分からないゲームなど、本当は面白くも何ともないのだ。そしてゲームの中のキャラクターとプレーヤーが一体化できないということは、そのキャラクターが痛みが分からない他人になってしまうことを意味する。子供たちがゲーム画面を無関心に眺めている姿こそ当時の大人たちが恐れた事態であり、画面に釘付けになり夢中になってコントローラーを握っているうちは、テレビゲームは肉体感覚的な想像力を刺激する健全な遊びと言えるだろう。

    ◆                    ◆                     ◆
 
蛇足だが、僕は今オタク業界を席巻している美少女ゲームが嫌いではない。それは画面内のキャラクターとプレイヤーの同一化を格闘ゲーム以上のレベルで実現しているということもあるが、何より「ボタンの重み」がまるで現実世界のように「軽い」からだ。僕らはゲームの中の女の子にかける言葉を選ぶように、二つ三つの選択肢を選んでボタンを押すように、現実世界でも女の子に言葉をかけることができる。それは波動拳とコマンド入力の間の乖離に比べたらずっと近いはずだ。そう、はるかに近いはずなのだが……

| | コメント (1) | トラックバック (1)