頬を撫でそして侮蔑せよ

新世紀エヴァンゲリオン劇場版は本当に感動的な映画だ。その感動的な部分は巧妙に隠蔽されているが、それでも感動的なことに変わりは無い。この映画は、世界に満ち溢れる幾億万の呪詛と一片の愛情を取り出して見せてくれている。僕らには、90年代の若かさゆえの過ちとしてエヴァを罵倒することすら許されている。なぜならそれは、あの「透明な存在」だった1997年の日々を抱きしめることでもあるのだから。

全くもって碇シンジは駄目な奴だった。徹頭徹尾、主人公にふさわしくない男だった。まるで僕らがこの世界の主人公にふさわしくないように、彼はダメダメな主人公だったのだ。

「みんな僕をいらないんだ。だから、みんな死んじゃえ!」

劇場版でコイツのしたことと言ったら、エヴァに乗って人類補完計画の依代になったことくらいだ。勝手に鬱病になって、全ての人類が溶け合ったLCLの海の中で、鬱気分を吐き出してみただけだ。別の世界を覗き見たことで、何かを悟った気になって現実に戻ってきたって、大事な問題は何一つ解決しちゃいない。世界は滅んだけど、目の前には相変わらずあのアスカが横たわっているのだから。

うつろにゆらめく補完された世界。それは機動戦士ガンダムのニュータイプ思想の極致だし、攻殻機動隊で草薙素子が融合したネットワークでもある。もはや行為は意味を持たず、溶け合った精神の中で言葉とイメージだけが飛び交う、下等な「肉」を捨て去った世界。僕らはそこで「透明な存在」になることができる。エヴァが最後にがたどり着いたのは、「ニューロマンサー」から「マトリックス」に至る電脳SFとは別解釈の、「肉体からの決別」に他ならない。

しかし、綾波レイは問いかける。

「では、その手は何のためにあるの?」

「そりゃあもちろん、アスカでオナニーするためさ!」と全国一千万のアスカファンと共に答えたいところだが、ここでのシンジ君の手はアスカを絞殺するためにあったようだ。まるで使徒を殲滅するかのように、不倫相手の娘を絞殺するかのように、彼は細腕に力を込める。そう、僕らの手などオナニーか、そうでなければ人殺しにしか使えないのだ。それは、親友のエントリープラグを握り潰したときから、セントラルドグマで最後の使徒を握り殺したときから、そして近所の子供の首を校門に晒したときから分かっていたはずだ。手についたのが白い精液か、赤い鮮血か、ただそれだけの違いなのだ。

赤い海と白い砂、満天の星星の輝く世界の果てで、シンジはアスカの首に手を伸ばす。補完された世界で他者の存在を願ったにもかかわらず、そのやわらかな首を締め上げる。彼は自らの手を拒絶にしか使えない。まるでエヴァが使徒にそうするかのごとく。幾重にも張り巡らされたATフィールド、肉に囚われた悲しき現実世界。憎悪は深く、絶望は色濃く少年の行為を支配する。しかし、対するアスカが伸ばした手は、首を絞めるシンジの頬に優しく触れた……。

「では、その手は何のためにあるの?」

溶け合う世界で分かり合えた可能性の小さな断片、ほんの一かけらを、この行為に見出すのは早計だろうか。あなたとわたしを隔てる肉が、何かを伝え合ったと考えるのは無謀だろうか。僕らは補完される必要もなければ、ニュータイプになったり、人工知能と融合する必要もない。たとえ首を絞められていたとしても、そこに手があるのなら、僕らは相手の頬を撫でられるのだ。2015年に十字架に張り付けられた化け物がもたらした結論。世界の主人公になれなかった少年が世界を滅ぼして手に入れた答え。

「この手は精液を搾りだし、親友を握り潰し、誰かの頬を撫でるためにある」

だからその後に「気持ち悪い」と侮蔑されたって、本当はどうでもいいことなのだ。ここが現実世界だという確認のようなものなのだ。補完された世界みたいに気持ちのいいアニメの中から、そんな言葉が出てきたくらいで、うろたえる必要はまったくない。僕らはいつだって、そんな言葉と隣りあわせで生きているはずなのだから。

ここは言葉ひとつで存在を全否定される世界。そして、殺意を持った相手すら許容してしまう、そんな可能性を孕んだ世界。新世紀が到来してはや5年。今の僕らがエヴァと当時の僕らに言いたいことは山ほどあるし、現に罵倒し唾をはきかける輩もたくさんいる。でも、時にはやさしく頬を撫でるように、エヴァを思い出してみてほしい。血しぶき、内臓、激痛、絶叫。エヴァ劇場版は永遠に僕らを補完してくれない。だけどそこには、「透明な存在」から抜け出す回路が、A10神経のように張り巡らされている。

テレビ版の初期が好きなら、白く粘つく手をいつまでも眺めていればいい。確かに劇場版なんか、不快で苦痛で気持ちが悪いだけだ。しかし、だからこそ僕らは溶け合うことなく、あの映画の頬を撫でることができるのだ。

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20世紀末の望遠視点

1990年代後半、『機動戦士ガンダム』から連綿と続く巨大ロボットのアニメの系譜はこのとき3人の嫡子を残していた。第三次アニメブームを巻き起こした庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』、Zガンダムのメカデザイナー永野護のライフワーク『ファイブスターストーリズ』(以下『FSS』)、そしてガンダムシリーズの総決算である富野由悠季『∀ガンダム』である。『機動戦士ガンダム』以降、20年余りの間に生み出されたロボットアニメは数知れないが、その最前線に今なお位置するこの3作品は、奇しくも同じ結論に辿り着こうとしていたように思う。それは、この永遠に続くとも思える日常をいかにして生き延びるか。宮台真治の言う「終わりなき日常を生きろ」への一つの回答である。
90年代は、80年代の百花繚乱の時期を経たロボットアニメが、ジャンルとしての力を急速に失っていった時期である。特にガンダムシリーズは続編の連発で手がつけられないほどに分派してしまい、視聴者に見放されつつあった。もはや少年がロボットに乗り込んで戦争に出ることは何の変哲もないドラマツルギーとなり、今後もバンダイが潰れない限り、無数の少年が幾度もガンダムという名のロボットに乗り込み、永遠に宇宙戦争を戦い続けるのは目に見えていた。一方、『重戦機エルガイム』を下敷きに1986年に連載が開始された『FSS』もちょうどこの時期、マンネリに陥っていた。「運命の3女神」の最後のエピソード「放浪のアトロポス編」に入ったものの、ひたすらAKD地上軍の描写が続きロボットも主要キャラも出てこない。15年近くも連載にもかかわらず、巻末の年表の10分の1も話が進んでいないうえ、話は細部へと向かう一方なのだ。永野護はMHを描くこと自体に飽き飽きしていたようで、後の「『放浪のアトロポス編』でFSSは終わらせることもできた」という発言は、この時期に大きな壁に突き当たり苦しんでいたことをうかがわせる。
この2つの作品は大塚英志が『物語消費論』の中で、80年代のオタクが捏造した「大きな物語」の典型例として挙げた作品でもあった。大塚は当時ブームだった『ビックリマン』が、シールを集めることで背後の神話的ストーリーを形成する点に注目し、同様にガンダムやFSSの「偽史」も社会からは失なわれてしまった「大きな物語」を欲望していると指摘する。そして、90年代後半はそういったオタク的な仮構の「大きな物語」の耐用年数が尽きようとしていた時期であり、それと入れ替わるようにして、小林よしのりや歴史教科書といった現実の歴史の見直し(ぶっちゃけると右傾化)によりリアルの「大きな物語」を復活させようとする動きが顕著になってくる。
それはともかく、前世紀末に巨大ロボットものは確かに斜陽を迎えていた。虚構内ではロボットのある風景はもはや日常と化し、凡庸で退屈な戦争をこれからも続けなければならないことに、クリエイターも観客も絶望しつつあった時代。そこに登場したのが『新世紀エヴァンゲリオン』である。このエヴァが当時熱狂を持って迎え入れられた理由の一つとして、その有限性が挙げられるだろう。人類の未来がすべて記されているという預言書「死海文書」や、使途が第三、第四とカウントされることから、使徒との戦いにはいずれ終わりがやってくるということは、かなり早い段階から予想できた。そしてゼーレや碇ゲンドウの目的が使徒を倒すことではなく、その後にあることもドラマ中盤にして既に言及されている。エヴァのプロトタイプでありガンダム退廃の象徴でもある93年の『機動戦士Vガンダム』のOPには、「終わりのないディフェンスでもいいよ」という歌詞が歌われているが、そんなエンドレスなガンダムサーガに対してエヴァは「終わり」を前提にしたロボットアニメであり、97年という時代とシンクロしながら「世界の終わり」へのカウントダウンを行っている作品だった。
エヴァでは中盤、鈴原トウジが重症を負った時点から、世界はもう後戻りできなくなる。以降はアスカが狂いレイは死に世界は徐々に壊れていく。シンジには使徒との戦いが終わっても帰るべき場所、ミサトとアスカとの共同生活や級友たちとの学校生活はもうない。ガンダムシリーズの主人公たちが戦争を終え平和な日常へと戻っていくのとは対照的だ。1999年以降も世界が続くことを信じられない当時の僕らが、ガンダムを捨ててエヴァに夢中になるのも当然と言えよう。しかしエヴァも劇場版で最終的に日常への回帰を志向する。人類補完計画を捨てて人同士が傷つけあう現実へと。だが新たな千年紀が始まるとして、破滅を心待ちにして生きてきた僕らは、またあのけだるい生活の中で軽い失望を延々と味わい続ける日々に帰らねばならないのか。破滅を乗り越えてもその先には「終わりなき日常」が続いているだけなのか。
そこでエヴァは新しい視点を示す。エヴァンゲリオン初号機の中で一人、永遠の宇宙漂流へと旅立とうとする碇ユイの最後の言葉。「たとえ、50億年たって、この地球も、月も、太陽さえなくしても残りますわ。たった一人でも生きていけたら。とても寂しいけど、生きていけるなら」。果てしない時の流れの先からの望遠視点。この日常を相対化するための人類を超越した目線である。これはFSSも同様で、8巻末に収録された時間跳躍。ラキシスが予感した数百年先のカラミティ星崩壊とアマテラスとの別れのシーン。アトロポスが幻視したはるか1000年先のすべてのファティマの最後の日。そして9巻の数億年後のジュノー星、もはや人間は原始に還りジョーカーの超科学が伝説となり神話となった世界の物語。FSS巻末の歴史年表を駆け上がり、歴史すら無効になった極限点を踏破することで、現在の物語を生き続ける、書き続けるモチベーションを永野は再び手にしたように見える。そして『∀ガンダム』。宇宙世紀から1万年とも1億年とも言われる膨大な時間が経過し、機械文明は極点を迎えたのち最終戦争により完全に滅んだ。そして人類が再び産業革命期までの文明を復興させつつある時代。これまでのガンダムの歴史のすべてが「黒歴史」として月の宮殿のデータベースに残されている世界。ここまで宇宙世紀から遠く離れることで、ガンダムは初めて20年余りの惰性とマンネリズムから開放された。タイヤ戦艦を出しても格闘ものにしてもしぶとく生き延びたガンダムを、富野は圧倒的な時間の重みによってやっと殺すことができたのだ。
日常がもはや日常ではなくなったはるか未来の世界の想像力を獲得することが、この3作品の「終わりなき日常」を打破する方法だった。そして、それこそが相対性の欠如により「SFではない」と言われたガンダムが、「永遠にロボットに乗り続け敵を倒し続ける世界」と重なる「僕らの日常」への批評性を獲得した瞬間。「ロボットプロレス」と揶揄されSFから拒絶されたロボットアニメが、20年の時を経て初めてSFになった瞬間でもある。

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SisterPrincess in U.C.

世間では不当に評価が低い「機動戦士ガンダムZZ」だが、Zガンダム劇場版の公開を控えている今、あえてZZを擁護してみたい。

「あたしにはジュドーの気持ちわかる!あたしはリィナじゃないから、リィナの代わりは無理かもしれないけど…でも、今日からジュドーの妹になってあげるよ…」
こんなこと言われたら世間の男は妹属性がなくても舞い上がってしまいそうだが、このプルの「妹宣言」には深い意味が隠されている。なぜならプルはこの物語において、アクシズの指導者ハマーン・カーンの分身としての役目を担わされているためだ。ハマーンの愛機「キュベレイ」の量産型を駆るのはもちろん、重要キャラでありながらハマーンと同じ画面に現れることはほとんどない。それはハマーンがプルの影であり、プルもまたハマーンの影だったからだ。ハマーンはプルという姿でZZにずっと登場していた。それを考えれば、OPにプルとハマーンが重なるシーンがあるのも納得できるだろう。プルとプルツーはハマーンの二面性であり、攻撃的なプルツーは劇中のハマーンの姿でもあるのだ(深読みをするならプルはハマーンの幸福な時期、つまりシャアとの蜜月時代の姿だったのかもしれない)。

そしてZZの主人公ジュドー・アーシタには、シャア・アズナブルが投影されている。それはハマーンがジュドーにシャアの影を見て惹かれていくことからも明らかだが、ジュドーという「もう一人のシャア」を出したのは、シャアとセイラという兄妹の関係をこのZZで精算するためだ。
ジュドーの妹であるリィナ・アーシタは、常にジュドーが行動を起こす際のモチベーションになっている超重要キャラだが(これは常にセイラの言葉を無視して動いていたシャアとは対照的だ)、途中からグレミーに誘拐され、さらにその後死んだことにされて最終回まで表舞台には登場しない。冒頭のプルの「妹宣言」はリィナが死んだ(ように見えた)直後のものだが、実際にこの台詞の通り、プルはリィナの退場によりジュドーの妹としての立場を担わされているのだ。
さらにもう一人、プルという「妹」を共有するキャラクターが、グレミー・トトだ。物語中盤にリィナを誘拐する彼は、言うまでもなくジュドーのダークサイドである。シャアのように金髪をなびかせ、ジュドーが願ってやまなかった高等教育をリィナに与えたプルとプルツーの支配者。ZZは結局この「2人のシャア」と、その「妹たち」を巡る物語だったと言っても過言ではない。

リィナの代わりであるプル。プルのコピーであるプルツー。プルツーの影としてのハマーン。ジュドーはこのリィナからハマーンにまで連なる「妹」の連鎖の間で翻弄される。そしてこの4人の妹たちは「妹」の座を争うかのように憎み殺し合う。プルはリィナを殺そうとし、プルツーはプルを殺し、ハマーンとプルツーが殺し合う。まさにプルの「私よ、死ね!」の言葉通りなのだ。
そして、ジュドーが愛するリィナから嫌悪するハマーンにまで繋がる一本の線は、かつてシャアとキシリアの間にもあったものだ(もちろんキシリアもまたギレンの「妹」である)。ア・バオア・クーでアムロ打倒に執着していたシャアを当初の目的、つまり「ザビ家への復讐」へ立ち返らせたのは、セイラの存在だった。「妹」の言葉で初心をとりもどし、バズーカ砲で脱出艇ごとキシリアの首を打ち抜くシャアは、「妹」の連鎖の果てにキュベレイの胴体を切断するジュドーの姿と重なるはずだ。

しかし、ジュドーはシャアとは違う。

「ガルマ…私からの手向けだ。あの世で姉と共に暮らすがいい」
このような復讐者の嘲笑めいた台詞をジュドーは吐かない。破壊されたキュベレイのコクピットに向けられた叱責とも同情ともつかないジュドーの言葉には、ハマーンの生き方を理解しえたがための悲しみが宿っている。ジュドーに執着し殺そうとしていたプルツーがもう一人のハマーンなのだとしたら、ジュドーがプルツーに向けた必死の説得の数々も、やはりハマーンに向けられたものだったに違いない。

そして、爆発寸前のキュベレイのコクピットでささやかれたハマーンの最後の言葉

「帰ってきて良かった…強い子に逢えて」
これほど優しい言葉が、かつてガンダムに登場する女性の口から出たことがあっただろうか。この瞬間、ハマーンは「妹」から「母」になった。これはZZという作品がすでに「逆襲のシャア」で到達する地点を見据えていたことを示している。ハマーンの全てを許すかのような言葉を聞いた後でなら、「逆襲のシャア」でのシャアの叫びも理解できるはずだ

「ララァは私の母になってくれたかも知れなかった女性だ!」
シャアの周りには常に女がいた。しかし彼は女の誰もが「母」になれることを最後まで知らなかった。だからシャアはハマーンを捨てクェスをもて遊んだ。これがシャアの悲劇だ。シャアの分身であるジュドーが最後に「母」に邂逅したことでZZはハッピーエンドとなり、落ちゆくアクシズの底で「母」を求めて絶叫するシャア・アズナブルの物語は、ZZの暗黒面へと転落する。「逆襲のシャア」には最後までセイラは登場しない。セイラはZZのラストで、ジュドーとリィナの兄妹の再会を導いたきり姿を消している。それは彼女がもはやシャアにかけるべき言葉を持たないからであり、幸せな再会の裏には、もう一組の兄妹の悲劇がすでに影を落としていたのである。

木星に旅立とうとしているジュドーは、すでに「妹」たちの呪縛から抜け出した存在だ。ジュドーが「母」であるハマーンの因縁の地へ赴くのは、孤児だった彼なりのハマーンへの想いなのだろう。ジュドーは希望としてのニュータイプの物語を最後までやりおおせたのだ。そしてそのすぐ後に、同じ業を背負ったシャアの悲惨な末路が描かれたとしても、いやむしろ描かれたからこそ、「機動戦士ガンダムZZ」はZガンダムの「もう一つのエンディング」として、なくてはならない存在なのである。

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【漫画評】GOGOモンスター/松本大洋

gogo.jpg松本大洋の一連の作品、『花男』から『鉄コン筋クリート』『ピンポン』までのモチーフは一貫している。それは無垢と理性を象徴する2人のキャラクターの対立と和解だ。賢さゆえに道を誤る理性が、汚れを知らない無垢なヒーローに救済される。この構造はこれらの作品の中で執拗に繰り返されてきた。しかしそれは作品を追うごとに微妙に変化し、結末において現実との新しい接点を見いだそうとしているように思える。『花男』では、草野球のオヤジがプロ野球で活躍するというファンタジー的な結末へとアクロバティックに着地したが、『鉄コン筋クリート』の最後には宝町を飛び出し南の島にいるシロとクロという控えめな幻想が付け足されるのみ。『ピンポン』ではペコがドイツでプロになるという、『花男』的なファンタジーの一方で、スマイルは教員となりドラゴンは日本代表から外れるという現実が突きつけられる。そしてこの『GOGOモンスター』では、学年が一つあがった二人の少年が自転車で疾走しているという、何の変哲もないラストシーンが描かれるだけだ。
『GOGOモンスター』では、無垢が現実世界に存在することの苦しみが初めて描かれている。花男やシロやペコのようにユキは世界には受け入れてもらえない。彼は教室で疎外され孤独だ。幻想でしかなく、しかしそれゆえに魅力的だった無垢を現実に定着させようとする軋み。それがこの作品に通底する重苦しさだ。「理由もなくヒーロー」だった花男から、「挫折し努力をするヒーロー」のペコを経て、松本大洋はいよいよ無垢なヒーローを現実へと放り出す。そこでユキが味わったのは、級友から変人扱いされ無視されるという酷薄な世界だった。
さらに、この作品では従来の無垢と理性の関係も崩れている。ユキは花男やシロやペコのように、対になる理性を救おうとしない。そもそもユキは暗黒面に落ちたIQを救うためではなく、学校生活から逃避したいがために「奴らの世界」へ行ったのだ。これまでの作品で対になって互いを補完していた無垢と理性は、『GOGOモンスター』では無力だ。それどころか二人は連れだって校舎の奥深くへと旅立ってしまう。これは松本大洋が描き続けてきた二面性によって世界を調和させる構造の限界とみていいだろう。もはや無垢では理性を救いきれない。それどころかユキは周囲の世界に耐えられずに自ら箱をかぶろうとする。それほどまでに『GOGOモンスター』に取り入れられた現実は重いものだった。
ユキが口にする「スーパースター」とは何だったのか。他の松本作品を鑑みるに、その存在はユキ自身を指していたはずだ。そしてユキの幻聴によれば、それは「内臓は溶け出し脳は固まりはじめる」前のユキ、つまりヒーローでいられた頃のユキに違いないのだ。しかし、「スーパースター」はもうユキの前に現れない。それはユキが成長して大人になろうとしているからだ。彼はこれまでのヒーローたちのようにイノセンスを維持できない。それもまた松本大洋がこの作品に取り入れた現実である。ヒーロー性を剥奪され世界に裏切られた無垢は、理性と共に世界の深淵へと足を進める。現実から遠く離れ、幻想の世界を通り抜け、扉の向こうにある寒くて深い暗黒へとたどり着くユキ。ここでIQを救うはずだったユキは、マコトのハーモニカによって逆に救われている。しかしマコトはユキを補完する存在ではない。なぜならユキの世界を理解できないマコトとの間には断絶しかなかったからだ。花男と茂雄、シロとクロ、ペコとスマイルは同じ世界を共有し、互いが互いを補い合う関係だった。それはユキとIQも同じだ。しかし暗闇の底でもう一人のIQと対峙していたユキを救ったのはマコトという他者、彼が疎外され逃げ出したはずの現実からやってきた、たった一人の友達だったのだ。
『GOGOモンスター』は松本大洋の一つの転機となるだろう。ここで初めて無垢は無力にも敗れ去り、それゆえにこの作品の結末にはファンタジーがない。『ピンポン』でアクマやドラゴンを通して垣間見えていた現実は、『GOGOモンスター』では完全に幻想を乗り越えている。それがあの二人の少年が自転車で疾走する、何の変哲もないラストシーンの意味するところだ。現実と幻想が結びついた甘く美しい世界を過去のものとした松本大洋は、一体どこに向かおうとしているのか。その答えはきっと『ナンバーファイブ』の中にある……といいなあ(笑)。

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