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2008年の『リバーズ・エッジ』

River子供たちが死体によって繋がっている。マイノリティたちを媒介する「死」。そして、ディスコミュニケーションの果てにまたひとつ、新しい死体が生まれる――。

「誰もがマイノリティでありながら、世界はまだマイノリティのものではなかった」。90年代の苦しみとは、この一言に尽きる。ケータイやネットのない時代、異端者はひとりぼっちで生きなければならなかった。居場所を見つけられないマイノリティの眼前に広がる「平坦な戦場」。
あの時代、私たちの異常性は発見し尽くされ、ありとあらゆるラベルが用意された。ゲイ、レズ、摂食障害、引きこもり、AD/HD、アダルトチルドレン……。にも関わらず、世界のクラスタ化はまだ始まってはいなかった。「病名」だけを与えられたマイノリティは、同じ境遇の者と慰めあうこともできずにひたすら孤立を深めていく。
ゆえに90年代の希望は「死」であった。人間はすべて必ずいずれ死ぬ。「死」は私たち全員にとって他人事ではない。どんなに隔たった他人同士であっても、最終的には必ず同じ「死」が与えられる。
だから子供たちはセイダカアワダチソウの茂る川原に向かう。死体を観賞するために。「死」を眺めているときだけ、私たちは同じ人間でいられる。ゲイにもレズにも摂食障害にも普通の少女にも、「死」だけは平等に訪れる。

あれから10年余。ネットの普及でマイノリティは格段に生きやすくなった。クラスや職場でひとりぼっちでも、ネットではたくさんの同胞が待っていてくれる。もはや私たちは「死」などという極限的な概念で他者と繋がる必要はない。
しかし、「ネット心中」という言葉が流行したときに気付くべきだったのかもしれない。どんなにネットワークが発達しても、コミュニケーションの輪からこぼれ落ちた一部の人々にとって、やはり「死」は究極の媒介項であるということを。

そして、「死」がもたらされた。

注目すべきは加藤の無個性ぶりである。加藤には憎むべき貧困も、頭の中のネズミ人間も、名門幼稚園へのコンプレックスもない。ネットを見回せばどこにでもいる本当に普通のオタク。しかし、それゆえに社会やネットの中では埋没する。
今や私たちはマイノリティが孤立していた頃とは逆さまの時代に生きている。「普通」であるという「欠陥」。普通すぎるがゆえに、どのコミュニティも自分の居場所とは感じられない、自らが宿命的に関わるべきコミュニティを見出せない。そんなとき、全ての人間に与えられた共感可能性、「死」による連帯が浮かび上がる。
加藤が国会議事堂や経団連を襲うはずがなかった。彼が本当に求めていたのは「死」を媒介にした他者との繋がりである。だからこそ彼は、同胞が集う秋葉原に乗り込み、自ら「死」を供給する死神になった。

「いったい死体はどこ行っちゃったんだろう?」

2008年、セイダカアワダチソウの茂る川原に死体はなかった。
山田や吉川こずえは異端者のコミュニティに自足し、「普通の」少女であるハルナとは分かり合うことなく雑踏の中に消えてゆくだろう。ゆえに「普通の」オタクである加藤は死神になるしかなかった。ケータイサイトで無差別に他者に語りかけながら、秋葉原で無差別に他者を殺戮するという、「奇妙な死神」になるしかなかったのである。

平凡であるがゆえに居場所を見つけられないマジョリティが降り立った「平坦な戦場」。
ケータイの代わりにサバイバルナイフを手にすることで、加藤は誰かと繋がることができたのだろうか。

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投稿: | 2010.11.04 05:08 午後

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