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【日記】心に「身代わり防壁」を

ネットを徘徊していると不愉快な情報に出くわすことは珍しくない。特にブログなんぞを運営していると、心ない読者からの批判で精神的なダメージを受ける機会も多く、ナイーブな人なら数日寝込んだり、最悪ブログを閉鎖するハメになったりするわけだ。

そんな時に決まって思い出すのが『攻殻機動隊』の「身代わり防壁」。草薙素子がハッキングの際に首に装着し、敵の攻性防壁の反撃をくらうとバシュッ!って代わりに焼かれるアレですね。攻殻の電脳戦はネットの神経接続技術を待つまでもなく、現在のインターネット状況の暗喩である。ああいう安全装置が人間の心にもあれば、エゲツない人格攻撃にも「ふぅ、危なかった…」なんつって精神の平安を保てるのではないか、と、ナイーブ(笑)な僕は考えるのですよ。

それにしても、何故にネット上の言葉の攻撃力は場所によって異なるのか。2chとブログとmixiでは、罵倒の威力は明らかに違う。2chで叩かれるよりブログの方が、ブログで叩かれるよりmixiの方がダメージは深刻だ。これはよく考えると不思議な現象である。現実世界では知り合いから「死ね」と言われるのと、見知らぬ人から「死ね」と言われるのでは、どちらが傷つくだろう。状況差・個人差はあるだろうが、僕はどちらも同程度に傷つく。なのに、なぜネットでは見知らぬ他人(2ch)の非難よりも知人(mixi)の非難の方が堪えるのか。逆に言えば、人はなぜ2chではそれほど傷つかないのか。

mixiにリアルの友達を招き入れた際に戸惑うのが、複数のコミュニティが自分を中心に重複することだ。家族、サークル仲間、ネット友達、職場の同僚、クラスメイト……。様々なコミュニティに所属している個人は、必ずしも同じ顔をしているとは限らない。サークルでは冴えないけどネット仲間の間ではリーダー的な存在、職場では堅物だが同窓会では宴会部長。こんな風にコミュニティによって見せる顔が違うのは、むしろ自然なことだ。そして本来、コミュニティをまたいだ別の顔を他人に知られる機会は少ないのだが、複数のコミュニティを束ねるmixiではその限りではない。例えば貴方が一家の父親だったとしよう。そしてマイミクに自分の息子、会社の部下、高校の同級生、嫁の父親がいるとする。ここで貴方はどのように振る舞うべきなのか、頭をかかえるに違いない。
mixiでは、通常の社会生活では他者の目に触れることのない人間関係まで、ひとつの体系に包括してしまう。ゆえに、そこに表れる「自我」は脆弱なものとなる。自分しか知らないはずの「別の顔」、それぞれのコミュニティでの立ち位置が、mixiでは他人から丸見えになる。そこにはバーチャルでありながら現実以上に、本当の自分自身の姿が現れてしまう。コミュニティを横断したマイミクが増えるほど、mixi上の自分とリアルの自分は強くイコールで結ばれるのだ。

この社会的に分裂した人格を統合するmixiとは対極にあるのが2chだ。ここでの「自我」は極限にまで分裂する。貴方がニュー速板で「○○氏ね」と書き込んだ5分後に、VIP板で「○○最高」と書き込んでも誰も気付かない。それどころか、IDがなければ同じスレッドの中で意見を翻し、他人のふりをして過去の自分を叩くことも可能だ。つまり、2ちゃんねらーは一貫性のない自身の断片を2ch中にバラまいている。この拡散しモザイク状になった「自我」は自己同一性に欠け、自分自身が投影されているという意識も薄弱である。だから、この領域では誹謗中傷に対して誰もが耐性を持つ。2ちゃんねらーがネットで最強のポジションを占めるのは、彼らが自らの発言に感情移入しない人種だからであり、諸悪の根元のように言われる匿名性は、こういったメカニズムを発生させる環境のひとつに過ぎない。

テキストとして現れる「自分」は必ずしも自分自身ではない。一般サイトにおいてこの認識は、むしろブログ以前の方が強かった。例としては、一昔前に流行ったバーチャルネットアイドルが分かりやすい。かの「バーチャルネットアイドル・ちゆ12歳」の管理人である「ちゆ」は、当然「中の人」とは違う。もちろん中の人がフリフリの制服を着たピンク髪のオタ臭い女子小学生である可能性は皆無ではないが(笑)、恐らくそうでない以上、「ちゆ」は中の人の一部分、断片でしかない。
このようにテキストサイトの一部は、ネット上で自ら構築したキャラクターを「演じる」という文化を発達させてきた。しかし輸入元の米国の影響を受けてソーシャルなメディアとして登場したブログは、この文化を継承しておらず、黎明期には本名を公開している人も少なくなかった。現在ではさすがにブログに個人情報をホイホイ載せる人は減ったが、それでもテキストサイトに比べると、「現実の自分」と「ネット上の自分」の距離が近いように感じられる。ブログ界隈で「傷つきたくない人々」による論争(はてブ問題等)が今更のように繰り広げられるのは、昨今のブロガーがナイーブだからというよりは、ブログ上の人格とリアルの個人が、あまりに近すぎるからだ。

確かにブログを「新しいジャーナリズム」として米国流に捉えるなら、ソーシャルでなければならない。情報のソースとして信頼を得るためには、本名や職業を明らかにする必要があるからだ。しかし、日本流のテキストサイト文化を継承するなら、ブロガーはあくまで仮想人格、作られたキャラクターを演じるべきだろう。それは『攻殻機動隊』の「身代わり防壁」ほどには完璧に精神をガードしてくれないが、ネットと貴方の間に置かれたクッションとして、いくばくかは心の負担を軽減してくれるはずだ。
心に仮想人格という「身代わり防壁」を。所詮は自分に対する言い訳めいたものでしかないのかもしれないが、この暴言の飛び交う戦場のごときネット界隈では、その程度のエクスキューズは許される、というのが僕の考えである。

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コメント

他人にハッキングを仕掛けるようなマネをしてるから焼かれるんじゃないですか?w

投稿: ファン | 2006.09.24 10:42 午後

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