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【日記】ユリイカ「ブログ作法」雑感

yuriユリイカの特集「ブログ作法」をやっと読んだ。ブログに興味のある人は、対談やスズキモトユの文章が面白いだろうし、人文系批評家を追っかけてる人にも内田、小谷野、上野、稲葉、北田と豪華なメンツが揃ってるのでお買い得。まあ、この両者を取り込んだところで読者数はたかが知れていると思うが、最終的にはどのくらい売れるのかなあ。
ところで、ぼくは今この文章をフォームに直接入力しているけど、ちょっと前まではテキストエディタに打ち込んで、完成させてからペーストしていた。対談ではこのフォーム入力とエディタ入力の違いが話題に上がっていて、フォーム入力は「喋り」の感覚に近いという指摘があったけれど、これは確かにその通り。フォーム直打ちに変更してから、文章が「話し言葉」に近づいていってるのが自分でもわかる。従来のウェブサイトとブログの文章表現上の一番の違いは、掲示板と同じインターフェイスをブログが備えたことで、文章が一気に「話し言葉」寄りになったことではなかろうか。出版-ウェブサイト-ブログ-掲示板-2ch-チャットの順で、右にいくほど入力から公開までの作業が少なくなり、それに従って文章も「書き言葉」から「話し言葉」へと近づいていく傾向にある。

(栗原さんじゃないけど)ここで思い出すのが大塚英志。小説トリッパー最新号の斉藤環との対談で大塚は、「近代の日本語の耐用年数は尽きている」「現実感と言葉の関係性がうまく構築できなくなっている」とさかんに言っていて、「新しい日本語」の徴候をライトノベルや2ch語にみる、という話になっている。大塚の言う「前近代から近代への移行が、ネットですごく早いシミュレーションとして行われている」というのは、要するに、二葉亭四迷以降の言文一致運動が、ウェブ上でもう一度再現されようとしている、ということだろう。

言文一致体が、前近代には存在しなかった「私」という概念を日本に定着させて、「私小説」が生まれた……。最近、大塚が田山花袋の『蒲団』をモチーフにあちこちで言っているネタだが、これと同様に、主に2chで使われているようなキモオタ文体も、「漏れ」「ボキ」というまったく新しい一人称表現を、ローカルながら定着させている。
実はこれ、ぼくも気に入ってて、「漏れのさくらタン(;´Д`)ハァハァ」みたいな文章を2chにバンバン書き込んでいる。要は「俺」→「漏れ」、「ボク」→「ボキ」と変化しただけなんだが、こういったお間抜けな一人称だけが支えうる自意識っていうのがオタクにはあって、その最大の成果が「しろはた」と『電波男』(まだ読んでないけど)なのだろう(しろはたの場合は「オリ」ですね。本当は『電波男』も「オリ」で行きたかったらしい)。

もっとも、これは大塚が今「シュート」で潰して回ってるような脆弱な自意識であって、氏ねだの糞だの殺伐とした言葉が乱れ飛ぶ2chで、そういった攻撃性をやりすごせる一人称として「漏れ」「ボキ」は機能している。
具体例を挙げれば、「俺はラルク最高だと思うよ」という書き込みにはプゲラプゲラと嘲笑が集中するが、「ボキわhydeタンに萌え萌えだにょ」という書き込みはスルーされる。2chのキモオタ文体には議論や批判を成立させない効果がある。
そして、江藤淳の影響下にある大塚は、この他者性を排除する脱力文体に対しては、徹底して批判的なスタンスを取るはずだ。次号あたりの『新現実』で『電波男』がボロクソに貶される可能性はあるし、森川に続く「シュートな批評」の生贄第2弾として、本田さんのところに対談のオファーが行っても不思議ではない。何しろヤツは売り上げで普遍性を測り、批評で強度を試すことで、「日本語アップデートバージョン」のデバックに一役買おうと息巻いているのだから。

ユリイカから話が逸れたが、ぼくが今後のブログに期待するのは、ブロガーの自意識を支える文体の確立だ。ブログ以前の「侍魂」や「ちゆ12歳」といったテキストサイトは、その可能性の片鱗を見せてくれたし、2ch管理人ひろゆきの「おいら」文体や、2ちゃんねらーにはおなじみ「吉野家コピペ」文体も特徴的な自意識を成立させていると思う。だが、ブログに求められるのは、こういった閉じられた世界だけで通用するジャーゴンでなく、コメントやトラックバックを通じた強烈な批判や罵倒に揺るがず、しなやかに対話できる自意識と、それを支える文体である。
ちょっと前までコメントスクラムによる炎上が話題となっていたが、今号のユリイカで北田暁大は、「昨今の『ブログ炎上』をみていると、事態が進行するにつれ、『発火』の頃の内容レベルでの対立が次第に『語り口』「作法』をめぐる闘争に変容する、ということが少なくないように思える」と述べ、ブログ炎上の原因は「権威主義VS反権威主義」や「ネット右翼VSネット左翼」といった構図よりも、「CMC(Computer Mediated Communication:ネット上のコミュニケーションのこと)にビルトインされている文脈感応性が闘争という形で顕在化した現象」であると指摘している。要するに、意見の違いというよりは、ブログの世界の「文体」や「作法」に合わせられなかったから連中は「炎上」したのだと。何より燃え上がるのが新聞記者のブログばかりなのは、「近代の日本語の耐用年数は尽きている」ことの証拠ではないのか。彼らが数百万の購読者を相手に培ってきた言葉は、ウェブという最先端の言語空間の中で、はっきりと脆さを見せている。

もちろん、ブログの文体の洗練には、歴史ある活字文化を取り入れることも必要で、小田嶋隆リスペクトの栗原文体や、植草甚一の影響下にあると思われる仲俣文体はその一環だ。こういう事を考え出すと、春樹文体のダメなところもよく分かるし(あんな文体のブログあったら殴りたくなるw)、舞城文体のブログはそこそこ上手くいくだろうとか、佐藤友哉文体は脆弱過ぎてムカつくとか、中原昌也文体は脆弱さと攻撃性が反転する瞬間があって微妙とか、大江文体は意外と面白いかもしれないとか、「文学」という囲みが取っ払われた文体の、実用性が見えてくる。

エッセイや小説、ライトノベル全部ひっくるめて、次世代の「文学」の勝者になるのは、ネット時代の自意識を支える言葉を生んだ者であり、ブログでも通用する(マネされる)ような文体を編み出した作家だ!

……と言ってみるテスト。的な脆弱な言い回しでこの文章を締めることにする。にょ。

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