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【日記】絲山秋子・Theピーズ・NEET

tou_umi一見おかしな組み合わせだが、これは先週の週刊新潮の「福田和也の闘う時評」で福田和也が並べた三者。
このエッセイで福田は絲山秋子の最新作『逃亡くそたわけ』を絶賛し、さらに作中に引用されるTheピーズの歌詞を「NEET的世界の倦怠」と表現している。逃亡文学と80年代のパンクバンドを貫く、キーワードとしての「NEET」。
絲山秋子は芥川賞候補の常連で、ぼくがはじめて読んだのは「海の仙人」が2003年下半期の芥川賞候補になったとき。結局この回は綿谷・金原コンビが受賞したが、福田和也はこのときも絲山秋子を強力に推してたような気がする。ソースが何だったか思い出せない。「SPA!」の坪内祐三との連載だっけか?

メンヘル女が都落ちした元エリートを連れて精神病院を脱走する『逃亡くそたわけ』は、精神病院という「地獄」から鹿児島に至るまでの旅を瑞々しく描く。この逃避行は途中、阿蘇山の火口をのぞくまでは死出の道行きであり、主人公の「はなちゃん」は躁病と闘いならが逃亡を続けるという、かなり重い話なわけだが、「自分の脆弱さを坦々を語りうる、語ろうと努めることができる強さ」を感じさせ、「この作品のタフさに勇気付けられる人は多いのではないでしょうか」と福田は評している。
登場人物は精神病患者の二人だけ。それゆえに「健常」と「異常」が相対化されない、狂いっぱなしの自意識に満ち満ちているが、会話のトーンと言葉遣いはそれをまったく感じさせない。精神病院から逃げ出し、故郷にも帰らず、とりあえずの「今」を生きる二人。発狂寸前の躁を抱えながらの能天気さは、まさしくNEET的感性の賜物か。
「さんざん無理してバカになった」というフレーズからも分かるように、Theピーズには、まだ、断固たる意思でくだらなく生き続けようとする、はりつめた決意のようなものが感じられる。しかし、『逃亡くそたわけ』の脱力した若者言葉は、狂気を当たり前のように受け入れる鈍さを持っている。さんざん無理しなくてもバカになってしまったNEETたちは、自らが狂っているということを、まるで観光地のお土産を語るときのような口ぶりで話せるようになっていたんだね。もっともそれを、「強靭さ」と捉えるか「鈍感さ」と捉えるかは意見が分かれそうだが。

社会的な意味で「NEET」というなら、芥川賞候補の『海の仙人』の方がはるかにそれっぽい。宝くじを当てて金銭的な余裕のできた男が会社を辞め、海辺の街でぼんやりと暮らす。そこに現れた「ファンタジー」と名乗る出来損ないの神様や、気のおけない元同僚たちとの交流を描いた、のんびりとしながらもどこか絶望的な物語。誰もがファンタジーを知っていて、ファンタジーを介して人の繋がりができあがる。しかし、彼らはさまざまな理由で恋愛関係を結べない人間たちだ。ただ、間にファンタジーがいるおかげで、かろうじて人間関係が成り立っている。
やがて神様は去ってゆく。後には不幸だけが山積みとなり、関係を持てなくなった人間たちが残される。最後にほのかな希望を暗示させて物語は終わるが、この作品はNEETたちの社会や人と繋がれない不安を、ファンタジーというその名の通りの幻想を登場させることで、逆に浮き彫りにしている。個人的には『逃亡くそたわけ』よりこっちの方が好み。吉田修一や保坂和志の最良の部分を結晶化したような、悲しく美しい寓話だ。

ヒキコモリ文学の佐藤友哉や滝本竜彦に対して、NEET的思想を文学で体現してくれそうな絲山秋子。しかし、いかにも引きこもってそうなヒッキーコンビに対して彼女は……知的なおねいさんだょぅ(;´Д`)ハアハア

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