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【日記】ぼくらは「2ちゃんねらー」であって「電車男」ではない

densyaいま書店で売っている「小説トリッパー」の春号を買ってきて、パラパラと読んでたのだが、斉藤環の連載評論の第四回「オンライン小説、あるいは文化的語受信による三幅対」が、『DeepLove』『いま、会いゆきます』『電車男』という最近の「顰蹙系」話題作を批評の俎上に上げていて面白かった。斉藤環はこの3作品の文化圏を以下のようにカテゴライズしている

『DeepLove』=ヤンキー文化
『いま、会いにゆきます』=サブカル文化
『電車男』=おたく文化

ぼくはこれらの作品のうち『いま、会いにゆきます』だけは読んだことがないけれど、この作品はセカチュウ以上に村上春樹のエピゴーネンで、カート・ヴォネガットやジョン・アーヴィングへの言及なんかもあるらしいですね。作者はオンライン小説からデビューしているので、この3作品はいずれもネット関係の小説ということになる。そして、これらの作品が上記のようにキレイに読者層をカテゴライズできるのは、該当する読者へと正確に届き過ぎてしまうネットの性質のためだと斉藤は指摘する。ネットでは送信者はより多くのターゲットへと情報を届けやすくなり、受信者は情報がまるで自分のために届けられたかのように錯覚しがちになる、この「誤配」が減少する仕組みにより、既存の3種の文化を鮮やかに象徴するようなヒットが生まれたのだと。

この批評の中で特に面白かったのが、『電車男』についての箇所。他の2作品と比較すると、『電車男』には、電車男とエルメス以外の登場人物がほとんど存在しない。つまり、作品内には「傍観者」が不在であり、それこそがシニカルなはずの2ちゃんねらーを泣かせる構造であると斉藤は指摘する。『電車男』は2ちゃんねらーの書き込みだけで構成されている作品だが、読者はこの書き込みと一体化することで電車男とエルメスのラブストーリーの外部に、「傍観者」というポジションを与えられる。この「物語の外部から参加」というのがポイントで、こういった形でのストーリーへのメタ的な参加が読者にとって今もっともリアリティを持つと、恋愛バラエティ「あいのり」を引き合いに出して説明しているのだ。

確かに、考えてみれば『電車男』の「地の文」は2ちゃんねらーの書き込みであって、いわゆる「台詞」に当たるのは電車男本人の書き込みだけだ。2ちゃんねらーたちは遍在するがゆえに不在であり、舞台を構成する背景や空気のようなものだ。

ここでやっと、現在2作品が連載中の漫画版「電車男」に対して、ぼくが延々と感じ続けていた違和感がはっきりする。この両作品に共通する問題は、2ちゃんねらーたちの姿が作中にキャラクターとして登場する点にあるのだ。『電車男』を読みながら読者が自らを重ね合わせるのは、電車男ではなくその背後にある膨大な書き込みである。だから電車男が純情メガネ君だろうと不細工キモオタだろうと山田孝之だろうと実はどうでもいいのであって、大事なのはむしろ2ちゃんねらーの描写にある。
だが、漫画版『電車男』はこの点で見事に失敗している。というか漫画である以上、失敗を宿命づけられていると言うべきか。例えばヤングサンデーで連載中、恋愛漫画にかけては大ベテランの原秀則の『電車男』。電車男とエルメスの場面は流石の職人芸で、いつもの原作品のように読めるのだが、2ちゃんねらーが紙面に出てくると、とたんに恋愛パートの一千倍くらいこっぱずしくなって雑誌を閉じたくなってしまう。そう、上の画像、こいつらだよ!

本家『電車男』では使い慣れた2chのジャーゴンも手伝って、作中の書き込みと読み手との同一化は容易に行われる。しかし、上の画像のような漫画内のキャラが出てきてしまうと、読者は「傍観者」よりもっと外部の立ち位置(それは「読者」という本来あるべき位置なのだが)に引き戻されてしまう。この恥ずかしさは、「2ちゃんねる」と「自分」だけの二人称の世界に三人称の視点を持ち込まれた恥ずかしさであり、皆が見ているとは知っていても、現実世界で2ちゃんねるの話題を出すのは何故か恥ずかしく感じるのに近い。
多くの人間が集まっているにも関わらず、その名前と数が不可視なため、「2ちゃんねる」と「自分」だけが相対している二人称的な世界に感じられる。これが対人恐怖のヒッキーでも書き込める2chの敷居の低さであり魅力だ。小説版『電車男』はテキストベースのため、このオンライン版の機能を引き継げたが、漫画という文法の違うメディアに移植するに当たって、違和感は浮き彫りになる。

漫画版『電車男』では、キャラクターとして姿形を与えるのは電車男とエルメスだけで、2ちゃんねらーは具体的に描かず、書き込みのテキスト表現に留めておくべきだった。なぜなら、それが個々の2ちゃんねらーに見えている実際の世界なのだから。いきなり住む場所も立場も異にする人々が、生活感丸出しで2chに書き込んでいるという、誰も見たことの無い「真実」を描写されたら、そりゃ引きますがな。読者の立ち位置が特殊な『電車男』は、元々メディアミックスに向いていない作品なのだ。

だから朗読劇とか……本当キッツイって(笑)

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