Mr.Childrenの成熟と喪失(中)・着ぐるみのヒーロー

Hero97年から98年にかけての活動休止、その再開後にリリースされた最初のシングル『終わりなき旅』は、未来へ突き進む姿勢をストレートに示した力強い詞で、一度は見失った超越性を再び追求しようとする気概を感じとることができる。しかし、興味深いのはむしろ次のシングル『光の射す方へ』だろう。

夕食に誘った女の笑顔が
下品で酔いばかり回った
身振り手振りが大げさで 東洋人の顔して西洋人のフリしてる
ストッキングを取ってスッポンポンにしちゃえば
同じモンが付いてんだ
面倒くさくなって送るのもよして
ひとりきり情熱を振り回すバッティングセンター
(『光の射す方へ』)

「東洋人の顔をして西洋人のフリしてる」という「虚飾」と、「同じモンが付いてんだ」という「本質」。ここにも『名もなき詩』以降の二項対立が影を落としている。しかし、このときの桜井はどこまでもシニカルだ。『深海』の頃のように両者の齟齬こだわることはなく、「ひとりきり情熱を振り回すバッティングセンター」、すなわち自慰行為にふけっている。活動を再開してみたものの、未だに桜井は「彷徨って」「骨折って」「リハビリ」している最中であった。
7thアルバム『DISCOVERY』にはほかにも、『名もなき詩』をさらに陰鬱なトーンに染め上げたような『Prism』が収録されている。

仮面を着けた姿が だんだん様になってゆく
飾りたてた 言葉を吐いては 笑うよ自ら
(『Prism』)

言うまでもなく「仮面」とは「檻」の言い換えである。「本当の自分」を隠し、「仮面」を付けて生きることへの自嘲。『深海』の頃よりもさらにやさぐれたようにすら感じられる。
さらに同アルバムの『ラララ』では、温かみのある曲調とは裏腹に、超越的感性の代替物を模索する迷走ぶりが透けて見える。

簡単そうに見えてややこしく
困難そうに思えてたやすい
そんなラララ そんなラララ
探してる 探してる

参考書よりも正しく
マンガ本よりも楽しい
そんなラララ そんなラララ
探してる 探してる

太陽系より果てしなく
コンビニより身近な
そんなラララ そんなラララ
探してる 探してる
(『ラララ』)

「ラララ」という抽象的で曖昧な表現。「~ではない」という否定形を連ねることで超越性を浮き彫りにしようとする、いわゆる「否定神学」の隘路に陥っている。【es】や「シーラカンス」のように、超越性を記号で表象しようする試みは、とうとう「ラララ」というフレーズにまで抽象化され、否定形でしか言及できない脆弱なものになってしまった。
95年以来、囚われ続けた問題意識。活動休止を経てもなお立ちふさがる内外の二項対立。この閉塞を打破するきっかけとなったのは、00年のアルバム『Q』に収録されている『NotFound』である。

僕はつい見えもしないものに頼って逃げる
君はすぐ形で示して欲しいとごねる
矛盾しあった幾つもの事が正しさを主張してるよ

自分だって思ってた人格(ひと)がまた違う顔を見せるよ
ねぇそれって君のせいかなあ
(『NotFound』)

「見えもしないもの」=内面と、「形で示して」=外面を対比するアングルは相変わらずだ。しかし、「矛盾しあった幾つもの事」、つまり内外の多面的な食い違いを、それぞれが「正しさを主張している」と理解し、「自分だって思ってた人格(ひと)がまた違う顔を見せる」という混乱を、「それって君のせいかなあ」と穏やかに受け止めている。この時期から、それまで「虚飾」や「仮面」としかみなしてこなかった外面を、積極的に引き受けようとする姿勢があらわれだす。それを可能にしたのは、「外面とは本質を抑圧する『檻』ではなく、さまざまに表情を変える『本質の一部』である」という発想の転換である。
さらに02年のアルバム『It's Wonderful World』に収録された『ファスナー』では、巧みな比喩を取り入れることで、「檻」の解釈にいっそうの深化が加えられる。

きっとウルトラマンのそれのように
君の背中にもファスナーが付いていて
僕の手の届かない闇の中で
違う顔を誰かに見せているんだろう
そんなの知っている
(『ファスナー』)

他人の内部に本質の存在を予感しながら、あえて触れずに胸の奥に秘めておく決意。『DISCOVERY』の頃と比べると、格段に成熟した視線である。「自分らしさの檻」であったはずの虚飾的な外面は、いつのまにかウルトラマンや仮面ライダーの着ぐるみへと形を変え、畏怖すべき本質や内面を覆い隠す「隠れ蓑」となっている。曲の結末はこうだ。「惜しみない敬意と愛を込めてファスナーを……」。
仮面を着けて生きる自分を自嘲したり、外面と内面が不一致の女に冷笑的だった頃とは違い、外側と内側の齟齬を、いとおしく見つめる眼差しがある。
また、同アルバムの『one twe three』という曲。「戦闘服よりはブレザーがよく似合う」と嫌味を言われながら、いつか「有刺鉄線のリング」へと上がり「戦闘服のカウントスリー」を見せてやるという詞の、ブレザーから戦闘服への「衣装替え」が、「自分だって思ってた人がまた違う顔を見せる」(『NotFound』)の言い換えであるのは言うまでもない。桜井は前作『Q』で得られたヒントをさらに深化させ、檻や仮面を「特撮の着ぐるみ」とみなす、つまり外面を「着脱自在のコスチューム」と理解するようになったのである。
そして『深海』以降の二項対立図式の解消の流れは、11thアルバム『シフクノオト』(04年)の『HERO』でひとつの極点にたどり着く。

小さい頃に身振り手振りを
真似てみせた
憧れになろうだなんで
大それた気持ちはない
でもヒーローになりたい
ただひとり 君にとっての
つまづいたり 転んだりするようなら
そっと手を差し伸べるよ
(『HERO』)

これは言うなれば『ファスナー』の続編である。自らを、世界を救うために立ち上がれない「臆病者」で、「ちっとも謎めいてないし今更もう秘密はない」と卑下しながら、それでも子供の頃に憧れたヒーローになりたいと歌う桜井。このとき彼が熱望していたのは、檻の中や仮面の下にある「本当の自分」の解放ではなく、むしろ外側の「檻」や「仮面」そのもの、脆弱な自分を包み隠してくれる「ヒーローの着ぐるみ」であった。

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『深海』以降のミスチルの変遷は、自らを貫く超越的感性からの離別の歴史である。自分の内部の超越性を記号的に表現することで、「内面と外面」という二項対立の図式を導き出し、両者のズレや対立に苦しみながらも、外面を客観視することで止揚、新しい認識に至る。こうして Mr.Childrenは1995年からの問題意識を、約10年の歳月をかけて消化していった。
『シフクノオト』に続いてリリースされたミニアルバム『四次元』(05年)には、そのタイトル(四次元=時間)のとおり、彼らの成熟と喪失の歴史が刻印されている。前章で解説したように、『未来』は「I Love Tomorrowの思想」を喪失し、未来を愛せなくなった自身についての曲である。
『inoccent world』から10年。「未来」は確実に磨り減っていった。それに反比例して増えていく過去の重荷。「黙ってろ!この荷物の重さ知らないくせして」(『ランニングハイ』)。しかし、齢を重ねた桜井は、かつて自分を閉じ込める「檻」であった虚飾的な外面を、誇らしげに引き受けている。

なら息絶えるまで駆けてみよう
恥をまき散らして
胸に纏う玉虫色の衣装を見せびらかしていこう
(『ランニングハイ』)

(続く……かも)

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Mr.childrenの成熟と喪失(上)・檻の中のシーラカンス 

Ori


生まれたての僕らの前にはただ
果てしない未来があって
それを信じていれば 何も恐れずにいられた
そして今僕の目の前に横たわる
先の知れた未来を
信じたくなくて 目を閉じて過ごしている
(『未来』)

Mr.Childrenが2005年にリリースしたミニアルバム『四次元』の一曲目『未来』。同年のポカリスエットのCM曲でもある。制服姿の綾瀬はるかが疾走するCMの映像は実に爽やかであったが、引用を一読すれば明らかなように、『未来』の詞はあまりにネガティブで、映像にはまったく似つかわしくない。
ちょうど10年前、同じくポカリスエットのCMで使われていたのは、ミスチルのブレイクのきっかけとなった名曲『innocent world』である。1995年の桜井和寿は、宮沢りえがダチョウに乗ろうとする映像に合わせて、未来への希望を高らかに歌い上げていた。

Ah 僕は僕のままで
ゆずれぬ夢を抱えて
どこまでも歩き続けていくよ
いいだろう? Mr.myself
(『innocent world』)

この10年の間に、彼らはいったい何を失ってしまったのだろうか。

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山下邦彦の『Mr.Children Everything―天才・桜井和寿終りなき音の冒険』は、楽曲・詞・インタビューを元に、デビューから5thアルバム『深海』までのミスチルの変遷を読み解いた評論集である。この本の中で山下は、96年のアルバム『深海』を失敗作と断言。さらに『深海』の失敗が98年からの活動休止の原因になったと指摘している。
ミスチルの長いキャリアの中で『深海』を最高傑作に推すファンの数は少なくない。山下の「『深海』への批判はどのような文脈でなされたものなのだろうか。
山下は、ミスチルの大きな転機となったシングル曲として、『【es】~Theme of es~』を挙げている。

桜井和寿の歌には、ずっとひとつの声が響いていた。
"I Love Tomorrow"
しかし、「【es】~Theme of es~」を作り終えた彼の歌には、その声が失われていた。彼はYesterdayを愛することを覚えてしまったのだ。(中略)周りの「親しい友人」たちはよってたかって、彼の内部から「Tomorrow」を追い出すようなことをしてきたのだ。君の内部にあるのは「Tomorrow」ではない。君の内部にあるのは「es」なのだ、と。
(『Mr.Children Everything―天才・桜井和寿 終りなき音の冒険』)

同書によると、音楽を始める以前の桜井は、「人から褒められたことがない」「自分には取り得がない」という劣等感が強く、桜井の創造のモチベーションは、その欠落を音楽によって埋め合わせることができると信じたところにあった。それゆえ、桜井はいつでも「過去の自分」よりも「未来の可能性」を愛していた。
しかし、その創造性の根源たる「I Love Tomorrow」の思想を「es」という心理学用語で名付けたとき、桜井の、Mr.Childrenの音楽は決定的に変質した。
《「es」を自分の中に見つけ、そして俯瞰したとき、何かが終わってしまった……》
自分の中にあるモヤモヤとした表現欲求、衝動、リピドー。そういったものを桜井は【es】という心理学用語で説明しようとした。そのことで本来、「明日」へ向かっていたはずの衝動の方向性が変化してしまったというのだ。それも悪い方向に。
確かに年代順にアルバムを追っていくと、『深海』の時期から桜井の詞は変化している。けれども、「終わってしまった」という部分はどうか。むしろ、この方向性の変化こそが、その後10年以上もの長きにわたって彼らの表現を延命させたコアであり、それなくして現在のMr.Childrenはありえなかった、とは考えられないだろうか。
「I Love Tomorrowの思想」について、さらに掘り下げてみよう。以下は同書で引用されているメンバーのインタビューの一部だ。

――曲はどんな風にできてくるの?
桜井「もう天から降ってくるみたいな感じです。」
鈴木「思いつき、というやつか?」
桜井「や、降ってくるんだよ(笑)。曲を作るときはそんなに苦しまないんですね。詞は大変なんですけど。詞はね。」
(『Mr.Children Everything―天才・桜井和寿 終りなき音の冒険』)

いかにもアーティストらしい、神がかった体験だが、この発言にそのまま『innocent world』の詞を重ねてみることは難しくない。

いつの日もこの胸に流れてるメロディー
軽やかにゆるやかに心をつたうよ
日の当たる坂道を登るその前に
またどこかで会えるといいなイノセントワールド
(『innocent world』)

要するに、「イノセントワールド」とは桜井の頭の中にしかない「ゾーン」であり、そんな超越的な領域、音楽家としての天啓的なインスピレーションの源泉を、桜井は【es】という言葉で表現しようとした。

で、そうして曲が生まれる時って、興奮している。"あ、浮かんだっ!"っていう瞬間って、自分の力ではない気がする。まさに天から降ってくる、みたいに"来る"わけです。でも、二度とこういうことは、起こらないんだろうなぁ、とそのときは思う。(…)
その天から降ってくるという感覚が、つまり"es"なのかなぁ、という気がするんです。
(『Mr.Children Everything―天才・桜井和寿 終りなき音の冒険』)

スピリチュアルな発言だが、ふりかえってみれば初期のミスチルにはこの種の詞が少なくない。『CrossRoad』の「つかの間の悲しみはやがて輝く未来へ」や、『Tomorrow Never Knows』の「心のまま僕はゆくのさ誰も知ることのない明日へ」など。「未来」という概念に託された抽象的な超越性、そこに身を委ねようとする姿勢は、初期ミスチルの詞のひとつの特徴と言える。つまり、山下の指摘する「I Love Tomorrowの思想」とは、ミュージシャンに訪れる神がかり的な瞬間、超越的な感性に身をゆだねようとする姿勢そのものなのである。
しかし、『【es】 ~Theme of es~』以降、桜井はこの超越性を、具体的なアイコンによって表象させるという手法をとるようになった。
問題のアルバム『深海』におけるアイコンは、言うまでもなく「シーラカンス」である。この作品は幻の古代魚シーラカンスを自分の内部に捜し求め、最後「連れていってくれないか、僕も」と絶叫するところで終わってる。ここで桜井は、【es】という心理学用語で表していた超越性を、「シーラカンス」というより具体的な象徴に託したわけだ。
かつて脳髄の中に存在していたイノセントワールド(超越性)はシーラカンスへと姿を変え、桜井はそれを探しに自らの内面の奥底へと沈降していった。桜井和寿の長い内省時代の始まり。それは、天啓に貫かれる官能的な楽園を飛び出し、自意識を抱えて地べたを歩き出した芸術家の苦悩の日々であった。それがもっともよく表れているのが、『深海』に収録されている大ヒット曲『名もなき詩』だ。

あるがままの心で生きられぬ弱さを
誰かのせいにして過ごしてる
知らぬ間に築いてた
自分らしさの檻の中でもがいてるなら
僕だってそうなんだ
(『名もなき詩』)

イノセントでナチュラルな超越的感性に身を委ねていた桜井が、ここで初めて対立項として「自分らしさの檻」という概念を見い出している。「自分らしさの檻」のせいで「あるがままの心」で生きられない。桜井の中にあった「あるがままの心」、つまり超越的感性は、【es】からシーラカンスへと具象化され、自意識の「檻」の中に閉じ込められた。こうして「外面と内面」、「虚飾と本質」、「"演じている自分"と"本当の自分"」といったテーマ、内外の二項対立の図式が導き出される。以降、桜井の関心は「イノセントワールド」や「I Love Tomorrow」に象徴される「あるがままの心」から、それを抑圧している「自分らしさの檻」へと向かうことになる。
例えば、シングル『シーソーゲーム』のC/W『フラジャイル』。

回れ回れメリーゴーランド 土足で人の心をえぐれ
泣いて笑って人類兄弟 死相の浮かぶ裏腹な笑顔で
(『フラジャイル』)

「人類兄弟」というお題目に「死相の浮かぶ笑顔」を対置し、健全なメッセージの裏にどす黒い本質を読み取ろうとするこの詞は、「外面と内面の二項対立」というテーマの最初の萌芽と見ることができる。この種のアイロニーは、『深海』以前と以降を隔てるもっとも大きな違いであり、次のアルバム『BORELO』、そして活動再開後の『DISCOVERY』までの3枚のアルバムのカラーを決定付けている大きな要因でもある。

デルモって言ったら「えっ!」ってみんなが
一目置いて 扱って
4, 5年も前なら そんな感じに
ちょっと酔いしれたけど
寂しいって言ったら ぜいたくかな
かいかぶられて いつだって
心許せる人はなく 振り向けば一人きり
(『デルモ』)

この曲の主人公は、世界中を飛び回る売れっ子のモデルでありながら、「幸せ」がよく分からない寂しい女性である。「自分らしさの檻の中でもがいてる」(『名もなき詞』)というフレーズがこれほどあてはまる詞もない。その孤独で虚飾に満ちた生活を歌い上げる曲の間には、次のような一節がはさみこまれる。

母の優しき面影を
追いかけて唄う
ふるさとの子守唄
(『デルモ』)

演じることに慣れきって、もはや本来の自分との区別のつかなくなった悲しいトップモデル。その築き上げられた虚飾の「檻」の隙間から、ほんの一瞬だけ垣間見えた「本質」。少女時代の懐かしい記憶……。
「人間の二面性」、「内面と外面の齟齬」というテーマを抱えたこの時期の桜井の率直な想い、それは次のようなものであっただろう。

嘘や矛盾を両手に抱え
"それも人だよ"と悟れるの?
(『Everything(It's you)』)

(続く)

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2008年の『リバーズ・エッジ』

River子供たちが死体によって繋がっている。マイノリティたちを媒介する「死」。そして、ディスコミュニケーションの果てにまたひとつ、新しい死体が生まれる――。

「誰もがマイノリティでありながら、世界はまだマイノリティのものではなかった」。90年代の苦しみとは、この一言に尽きる。ケータイやネットのない時代、異端者はひとりぼっちで生きなければならなかった。居場所を見つけられないマイノリティの眼前に広がる「平坦な戦場」。
あの時代、私たちの異常性は発見し尽くされ、ありとあらゆるラベルが用意された。ゲイ、レズ、摂食障害、引きこもり、AD/HD、アダルトチルドレン……。にも関わらず、世界のクラスタ化はまだ始まってはいなかった。「病名」だけを与えられたマイノリティは、同じ境遇の者と慰めあうこともできずにひたすら孤立を深めていく。
ゆえに90年代の希望は「死」であった。人間はすべて必ずいずれ死ぬ。「死」は私たち全員にとって他人事ではない。どんなに隔たった他人同士であっても、最終的には必ず同じ「死」が与えられる。
だから子供たちはセイダカアワダチソウの茂る川原に向かう。死体を観賞するために。「死」を眺めているときだけ、私たちは同じ人間でいられる。ゲイにもレズにも摂食障害にも普通の少女にも、「死」だけは平等に訪れる。

あれから10年余。ネットの普及でマイノリティは格段に生きやすくなった。クラスや職場でひとりぼっちでも、ネットではたくさんの同胞が待っていてくれる。もはや私たちは「死」などという極限的な概念で他者と繋がる必要はない。
しかし、「ネット心中」という言葉が流行したときに気付くべきだったのかもしれない。どんなにネットワークが発達しても、コミュニケーションの輪からこぼれ落ちた一部の人々にとって、やはり「死」は究極の媒介項であるということを。

そして、「死」がもたらされた。

注目すべきは加藤の無個性ぶりである。加藤には憎むべき貧困も、頭の中のネズミ人間も、名門幼稚園へのコンプレックスもない。ネットを見回せばどこにでもいる本当に普通のオタク。しかし、それゆえに社会やネットの中では埋没する。
今や私たちはマイノリティが孤立していた頃とは逆さまの時代に生きている。「普通」であるという「欠陥」。普通すぎるがゆえに、どのコミュニティも自分の居場所とは感じられない、自らが宿命的に関わるべきコミュニティを見出せない。そんなとき、全ての人間に与えられた共感可能性、「死」による連帯が浮かび上がる。
加藤が国会議事堂や経団連を襲うはずがなかった。彼が本当に求めていたのは「死」を媒介にした他者との繋がりである。だからこそ彼は、同胞が集う秋葉原に乗り込み、自ら「死」を供給する死神になった。

「いったい死体はどこ行っちゃったんだろう?」

2008年、セイダカアワダチソウの茂る川原に死体はなかった。
山田や吉川こずえは異端者のコミュニティに自足し、「普通の」少女であるハルナとは分かり合うことなく雑踏の中に消えてゆくだろう。ゆえに「普通の」オタクである加藤は死神になるしかなかった。ケータイサイトで無差別に他者に語りかけながら、秋葉原で無差別に他者を殺戮するという、「奇妙な死神」になるしかなかったのである。

平凡であるがゆえに居場所を見つけられないマジョリティが降り立った「平坦な戦場」。
ケータイの代わりにサバイバルナイフを手にすることで、加藤は誰かと繋がることができたのだろうか。

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